太田述正コラム#6539(2013.10.28)
<台湾史(その2)>(2014.2.12公開)
「台湾は西太平洋で活躍するポルトガル人によって、「発見」された。それは台湾付近の海域を航行中の船員が、緑したたる美しい島影を目のあたりにして、「ilha Formosa!(イラ・フォルモサ!)」と感嘆の声をあげたことに始まる。現在のところこの「発見」は、ポルトガル船の種子島漂着の翌年、つまり1544年のことと推定されている。Ilhaとは島、Formosaとは麗しいという意味で、すなわち「麗しき島」である。・・・欧米諸国では台湾をTaiwanではなく、フォルモサと呼ぶこともしばしばである。・・・
ポルトガル人が「発見」した16世紀半ばの台湾には、わずかの漢族系の移住民のほかに、先住民(今日の台湾では高山族という)と総称される、マレー・ポリネシア系の人々<(注1)>が先住していた。今日では先住民は台湾の少数民族となっているが、当時はほぼ台湾全域に分布していた。・・・言語、風俗、習慣、居住地域などの相違から、先住民は別々の時期に、異なった地域から台湾に移住してきたと思われる。・・・
(注1)現在は、(台湾のほか、フィリピン、マレーシア、インドネシア、マダガスカル、ポリネシア、オセアニアに分布しているところの、)オーストロネシア系(austronesian)と呼ぶのが一般的なようだ。
現在の台湾には、人口の2%にあたる約510,000人がいる。漢人が台湾に多数移住するようになった頃(17世紀)より約8,000年も前に、彼らは台湾に移住してきたと考えられるようになった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Taiwanese_aborigines
なお、言語に着目すると、「マレー・ポリネシア語派・・・またはマラヨ・ポリネシア語派はオーストロネシア語族の大部分の言語を含む語族である。またオーストロネシア語族全体をマレー・ポリネシア語族と呼ぶことも多い。オーストロネシア語族から台湾原住民の言語の多く(タオ族以外)を除いた言語をまとめてマラヨ・ポリネシア語派と呼んでいる」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%AA%9E%E6%B4%BE
らしい。
ついでだが、「タオ・・・は、台湾原住民のなかで唯一島嶼部に居住する民族集団。居住地域は台湾本島の南東沖の孤島蘭嶼である。人口は4000人程。島内に6つの村落を構成する。・・・日本の敗戦までに教育を受けた高齢者はタオ語と日本語しか話せないが、中年世代はタオ語と中国語だけ、現代の子供たち(彼らの孫・ひ孫世代)は中国語しか話すことができ<ない。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%AA%E6%97%8F
多部族に分かれていたため、ついに台湾には先住民による統一した政権や、王権が樹立されないままに外来の民族に押されて、少数民族への道をたどることになったのである。この点、戦国時代の混乱を収拾して日本を統一した豊臣秀吉が、1593年に原田孫七郎<(注2)>を使者にたて、台湾の「高山国」に入貢を促したが、実現しなかったことからも窺える。そもそも台湾のだれに、秀吉の書簡を手渡すべきかが分からなかったのである。「高山国」の呼称の由来は、つまびらかではないが、多分に台湾の3分の2を山地が占め、3000メートル級の60を超す山々<(注3)>を擁していることからであろう。はからずもこの「高山国」宛の秀吉の書簡は、台湾を一つの国として扱った最初のものとなった。」(2、4~5)
(注2)「生没年不詳。「安土桃山時代の商人。また、「ガスパル」の洗礼名を持ちガスパル原田とも呼ばれる。長崎で貿易を営む原田喜右衛門の部下であった。海外情勢に詳しかったため豊臣秀吉の使者として、スペイン領フィリピンに日本国への朝貢を要求する内容の書状を持ってマニラのスペイン領フィリピンの総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスのもとに出向き交渉したが失敗し、秀吉宛にダスマリニャスの返書を持って帰国した。また、・・・1593年・・・、現在の台湾にあるとされた高山国に秀吉の命で朝貢を促す文書を届けようとしたが、高山国が存在しない国家だったため交渉先を見つけることができずその試みは失敗した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E5%AD%AB%E4%B8%83%E9%83%8E
(注3)「玉山・・・旧称新高山(にいたかやま)・モリソン山(Mt Morrison)は、台湾のほぼ中央部に位置する山。標高は3,952mと台湾で最も標高が高い。・・・富士山の標高3,776mよりも高いことから、・・・日本の学校でも「日本一の山」として教えられていた。・・・1941年12月2日に発令された日米開戦の日時を告げる海軍の暗号電文「ニイタカヤマノボレ一二〇八」のニイタカヤマとは当山のことである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E5%B1%B1_(%E5%8F%B0%E6%B9%BE)
→プロト欧州文明の雄たるスペイン(ポルトガルは、1580~1640年、スペインと同君連合)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB
によるカトリシズム全体主義の1571のフィリピン併合
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%9A%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%AC%E3%82%B9%E3%83%94
という脅威に直面した日本(豊臣政権)が、スペイン領最東端(フィリピン)の偵察を行うとともに、日西間の緩衝地帯として台湾の保護国化/領有を模索した、ということだと思います。
幕末以降の、欧州文明辺境の雄たるロシアによる正教全体主義/民主主義独裁(スターリン主義)の清朝北端地域併合という脅威に直面した日本が、日露間の緩衝地帯として朝鮮半島の保護国化/領有を模索したことと好一対です。(太田)
「台湾を支配してきた外来政権のオランダ、鄭氏政権、清国、日本、国民党政権のいずれもが、「蕃人」対策のいわゆる「理蕃政策」のもとで、先住民を漢族系の移住民から隔離し、「分割支配」の策を弄してきた。そればかりでなく、先住民の「蛮性」を意図的に印象づけてきたのである。・・・
もともと「タイワン」とは、かつて台南付近に居住していた先住民・・・が、外来者あるいは客人を「タイアン」・・・または「ターヤン」・・・と称していたのが訛って、「タイワン」となったものである。・・・それが島そのものを指す固有名詞となり、「台湾」と慣用されるようになったのは、明王朝の万歴年間(1573~1620)のことである。」(6~7)
→さすがに、このあたりの記述は正確です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Taiwan (太田)
(続く)
台湾史(その2)
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