太田述正コラム#6543(2013.10.30)
<台湾史(その4)>(2014.2.14公開)
 「オランダのアジア貿易において、台湾は日本のオランダ商館につぐ業績を上げている。しかも日本のオランダ商館は、台湾からの輸入によって利益を上げていたことを考えれば、オランダのアジア貿易に占める台湾の価値は、きわめて高いものであった。<(注6)>・・・
 (注6)「これらの貿易による利益は株主に還元され、台湾社会の建築に還元されることはなかった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%8F%B2
 <なお、>オランダ<は、>・・・中国福建省南安県出身の海賊の頭領である鄭芝竜(1604~1661)<(注7)>と協定を結び、海上輸送の安全を確保した。・・・
 (注7)ていしりゅう、チェン チーロン、Zheng Zhilong「明朝末期に中国南部および日本などで活躍した貿易商、海賊、官員である。・・・カトリックの洗礼を受け<ている>。・・・日本の肥前国平戸島・・・に住むうち、平戸藩士田川七左衛門の娘であるマツと結婚。後に、息子の鄭成功が生まれている。・・・<後に、>成功は父の勢力を引き継いで台湾に拠り、明の復興運動を行い清に抵抗したため、芝龍は成功の懐柔を命じられるが、成功がこれに応じなかったため、謀反の罪を問われて、1661年に北京で処刑される。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E8%8A%9D%E9%BE%8D
 台湾におけるオランダの苛斂誅求のさまは、まさしく重商主義時代の植民地経営そのものであった。あらゆる生産と消費に対して重い税金を課し、新たな移住民からは人頭税を取り立てた。・・・
 すべての土地を・・・東インド会社の所有とし、それを移住民に貸与して、収穫物の5から10%を小作料として徴収した。・・・
→同じ頃の江戸時代の日本の農家については、おおむね五公五民であった
http://www.nihonjiten.com/data/34896.html
とされていることはともかくとして、実態の「税金」は10%未満であったとされている
http://www2.ttcn.ne.jp/kazumatsu/sub226.htm#2e
わけですが、これと比較して、台湾における「収穫物の5から10%」の「税金」が「苛斂誅求」とは言えないでしょう。
 明や清の税金とも比較したいところです。
 このくだり、伊藤は筆が滑っている感があります。(太田)
 会社は移住民開拓者に対し、農耕用の器具や牛、開発資金を貸し与えると同時に、灌漑施設の整備や先住民の襲撃の防御に努め・・・<たが、これら>は、あくまでも会社の業績の向上を目的としたものであった。オランダは台湾在来の作物に品種改良をほどこし、同時に新たな作物の移植を進めた。・・・また、耕作用にインドから導入した黄牛・・・は、もっぱら人力に頼っていた当時の農業生産力を、著しく増進させた。・・・<これら>の結果、・・・輸入する必要のあった米は、やがて自給ばかりでなく、輸出できるまでになった。
 <更に、>もともと台湾南部は、砂糖キビ栽培の適地であり、・・・砂糖<が、>・・・輸出されてもいた<が、>オランダは・・・<、これを>・・・重要な輸出産業に成長させた。」(17~19)
→私は、かなりの善政だと思うのですが、いかがでしょうか。(太田)
 「スペインは、バシー海峡をはさむフィリピンの安全の確保と、日本や中国との貿易をオランダに独占されることを恐れ、台湾北部の占領をめざして、1626年5月5日にマニラから艦隊を派遣した。スペインの艦隊は、オランダとの衝突を避け、台湾の東海岸沿いに北上、同月11日に東北端に到達し、・・・さらにその翌日には鶏籠(今日の基隆)に上陸して占領式を行ない、ここにサン・サルバドル要塞を構築した。その2年後の1628年にはさらに北上して西をめざし、・・・今日の淡水・・・を占領、ここにサン・ドミンゴ要塞を築いた。その翌年、オランダは艦隊を派遣して、スペインの占領を排斥しようとしたが、これは逆に撃退された。」(19~20)
→オランダがスペインから正式に独立するのは、1648年のウェストファリア条約によってであり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%8
この時点では両「国」は、まだ法的には戦争状態にあったことを思い起こしてください。(太田)
 「<しかし、>スペインは日本や中国への中継貿易も、日本へのカトリック布教の期待も思うにまかせなかった。その上、マニラからの補給は往々にして台風に妨げられ、船もろとも太平洋のもくずと消え、わずかばかりの占領要員の多くが、先住民の襲撃やマラリアなどの風土病に倒れた。スペインの台湾進出の目算は狂い、1638年に淡水のサン・ドミンゴ要塞を破壊して撤退した。・・・オランダは、1642年夏に艦隊を派遣し、ほぼ3ヵ月にわたる攻防で、同年9月3日に基隆を陥落させ、スペインの17年間にわたる台湾北部占領は、ここに幕を閉じたのである。・・・
 スペイン・・・<は、>この間に北部開発の労働力として、中国からの移民を招来し、先住民とともに開墾、開発にあたらせ、ことに台北近郊・・・における硫黄の採掘に力を入れた。・・・<また、>先住民や移住民に対するカトリック布教<も行った。>」(20~21)
→「敵」のスペインと「味方」のオランダが台湾で対峙していた機をとらえて、台湾北部のスペイン勢力を一掃するという名目で、台湾北部を占領する、といったことも、当然のことながら、幕府は考えなかったわけです。
 薩摩藩が、台湾での動きをどう見ていたのか、興味があります。(太田)
 「郭懐一<(注8)>は、伝えられるところでは、・・・鄭芝竜の元部下であり、台湾<の>・・・赤嵌近辺に居住して農業を営<んでいた>・・・。郭懐一は1652年9月7日、同志を集めて蜂起を密謀し、仲秋の月夜に決起することを決定した。しかし、弟の密告により、オランダ当局の知るところとなったため、郭懐一は急遽、翌朝に1万6000の同志を率いてプロビンシャ城を攻撃し、占領した。ただちにオランダ兵がゼーランジャ城から派遣され、2000の先住民の支援も得て、プロビンシャ城を奪還し、郭懐一は同志約4000名とともに戦死した。その後、蜂起に関連した移住民千数百名も、虐殺された。数の上では蜂起部隊が勝っていたが、鍬やスキ、棍棒、竹ヤリの武器では、オランダ兵と先住民に支給された近代的な武器の前には、脆くも敗れ去るしかなかったのである。
 (注8)[Guo Huaiyi。]1603?~52年。「オランダ側文献<では>「五官懐一(Gouqua Faet)と称された。・・・1652年9月7日、当時竹により建築されていた<プロビンシャ城>を攻撃した。しかし郭懐一は同日に戦死し、叛乱軍は瓦解<した。>・・・郭懐一は鄭成功の武将であったという説もあるが、当時の文献からはその明確な証拠が発見されていない。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%AD%E6%87%B7%E4%B8%80
http://taiwanpedia.culture.tw/en/content?ID=3472 ([]内)
→「鄭芝竜の元部下」云々は、臺灣大百科全書(上掲)に照らしても、伊藤の記憶違いだと思われます。(太田)
 郭懐一の蜂起は、少数のオランダ人の支配、それも虐政に対する多数の移住民の抵抗であり、移住民の権利意識の現れでもあった。また、蜂起の失敗は先住民と移住民の分割支配の成果ともいえ、オランダの台湾撤退の後も、新たな支配者の統治手段とされている。」(22~23)
→(先住民と移住民とが折り合いが悪かったことは想像できますが、)先住民がオランダ側についたことや、臺灣大百科全書(上掲)が、不作に加えて重税を原因とする説とともに、移住民達が、投機目的でオランダから一定地域の徴税権を借り受けたものの、借金を抱えたり破産したりして苦しんでいたせいであるとする説も挙げていることから、伊藤の重税説には疑義があります。原因は、移住民の多くが一発屋だったところにあるのではないでしょうか。(太田)
(続く)