太田述正コラム#6567(2013.11.11)
<台湾史(その10)>(2014.2.26公開)
「樺山総督は、1895年11月に、「今ヤ全島全ク平定に帰ス」と大本営に報告したが、皮肉にもこの後から、台湾全島各地でゲリラ活動が活発になって行った。翌12月には、台湾島北部で決起した「土匪」が宜蘭を包囲し、日本軍を襲撃した。このとき日本軍に殺害された台湾人は2800余名に達している。また、12月から翌1896年1月にかけては、・・・「土匪」が、台北を奪回しようとして襲撃し、台湾全島が騒然となった。総督府は本国に援軍を要請し、結局、数千の「土匪」を殺害して鎮圧した。・・・
台湾人の抵抗の鎮圧に腐心するなかの1896年5月、初代総督樺山資紀<(注24)>は在任13ヵ月足らずで、陸軍中将の桂太郎<(コラム#249、443、3336、3695、3754、4406、4598)>と交代した。二代総督となった桂太郎は、在任期間わずか4ヵ月、そのうち台湾に滞在したのは10日間に過ぎず、・・・同年10月に陸軍中将の乃木希典<(コラム#704、2821、3536)>が、第三代台湾総督に任命された。・・・
(注24)1837~1922年。「(薩摩藩士・・・、軍人、政治家。階級は海軍大将。・・・警視総監(第3代)、海軍大臣(第4・5代)、海軍軍令部長(第6代)、台湾総督(初代)、枢密顧問官、内務大臣(第15代)、文部大臣(第14代)を歴任した。・・・海軍大臣<の時、>第2回帝国議会(1891年11月21日召集)において、政府提出の軍艦建造案が「海軍部内の腐敗が粛清されなければ予算は認められない」と否決されると激昂、「薩長政府トカ何政府トカ言ッテモ、今日国ノ此安寧ヲ保チ、四千万ノ生霊ニ関係セズ、安全ヲ保ッタト云フコトハ、誰ノ功カデアル。」と、薩長藩閥政府の正当性と民党の主張する「経費節減」「民力休養」を批判する趣旨の発言(いわゆる「蛮勇演説」)を行う。民党の反発により議場は騒然となり、予算は不成立となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%BA%E5%B1%B1%E8%B3%87%E7%B4%80
台湾総督は行政長官であると同時に、軍政と軍令を統括する軍事長官として、事後報告を要するだけで、臨機専行の権限を与えられており、・・・<これは、>日本に政党政治が実現し、原敬内閣のもとで文官総督が就任するまでつづいた。
・・・<これらの権限に加え、>台湾総督には、<1896年には>法律を制定する権限も・・・<1897年には>財政権もあたえられ<た。>・・・」(77~80)
「後藤新平<(コラム#52、3259、4602、4604、4637、4936、4952、5138)>は、台湾総督府民政局長(後に民政長官)として、1898年3月に第四代総督の児玉源太郎<(注25)コラム#4944、5039、6442)>とともに台湾に赴任した。・・・児玉は総督に在任中、1900年12月に第四次伊藤内閣の陸軍大臣を兼任、1903年7月に第一次桂内閣の内務大臣となり、・・・文部大臣<も>兼任、日露関係の険悪化にともない、内務大臣を辞して参謀本部次長となり、日露戦争勃発とともに満州軍総参謀長に就任した。したがって児玉は・・・8年余の間、台湾統治に携わる暇はなく、実質的には後藤民政長官に委ねられた。
(注25)1852~1906年。「長州藩の支藩徳山藩<士>、陸軍、軍人、政治家。陸軍大将・・・日露戦争開戦前には台湾総督のまま内務大臣を務めていたが、 ・・・1903年・・・に対露戦計画を立案していた陸軍参謀本部次長の田村怡与造が急死したため、大山巌参謀総長から特に請われ、降格人事でありながら内務大臣を辞して参謀本部次長に就任する(台湾総督は兼任)。日本陸軍が解体する・・・1945年・・・まで、降格人事を了承した軍人は児玉ただ一人である。日露戦争のために新たに編成された満州軍総参謀長をも引き続いて務めた。満州軍総参謀長として満州に渡って以降は遼陽会戦、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦などで総司令の大山巌元帥を補佐、また12月初頭には旅順攻囲戦中の第三軍を訪れている。奉天会戦勝利の報に大本営がウラジオストクへの進軍による沿海州の占領を計画した際、児玉は急ぎ東京へ戻り戦争終結の方法を探るよう具申している。目先の勝利に浮かれあがっていた中央の陸軍首脳はあくまで戦域拡大を主張したが、日本軍の継戦能力の払底を理解していた海軍大臣山本権兵衛が児玉の意見に賛成したこともあり、ようやく日露講和の準備が始められることとなった。日露戦争後、児玉は陸軍参謀総長に就任。また南満洲鉄道創立委員長も兼務するが、委員長就任10日後の<1906>年7月23日、就寝中に 脳溢血で急逝した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E6%BA%90%E5%A4%AA%E9%83%8E
後藤はその持論である「生物学的植民地経営」を実践して行った。・・・<そして、>この生物学的な原理にしたがい、台湾に就任すると「土匪」の鎮圧に従事する一方、台湾旧慣調査会や中央研究所などを設立し、土地および人口の調査を実施した。そしてこれらの調査と研究を基礎に、台湾統治の政策と法制を立案した。・・・
<彼は、>近代的な建築物や鉄道、水道、電気などの整備で植民地の住民を威圧する、いわゆる「文装的武備」によって、治安秩序の回復と支配関係の確立をはか<るとともに、>抵抗の鎮圧にあたっては、非情なまでの手段による「鉄血政策」で臨んだ。・・・
日本の植民地統治を、朝鮮では「憲兵政治」といい、台湾では「警察政治」という。台湾の「警察政治」は、後藤によって始められたもので、日本の統治時代を通じて、台湾の警察は「泣く子も黙る」ほどに恐れられる存在であった。・・・後藤の就任から1902年までの5年間に処刑された「土匪」は、3万2000人にも達しており、当時の台湾人口の1%を越えている。・・・こうして後藤新平が台湾を去る1906年までに、大規模な武力抵抗はほとんどなくなっている。」(84~88)
「インフラの整備・・・に必要な経費は、・・・「現地調達」の原則が徹底され、ほとんどが台湾で徴収する租税や台湾事業公債、専売収入でまかなわれ、道路の改修と延長は、・・・動員される、住民の勤労奉仕が常であった。・・・
1905年度から、日本政府の台湾総督府特別会計に対する補助金を辞退することにより、領有から10年ほどで台湾の財政独立を実現させた・・・。・・・
→この伊藤の説明はおかしいと思いませんか。
要するに、10年間は、日本本国からの資金援助で台湾のインフラ整備等が行われた、ということです。(太田)
児玉<の次は>・・・陸軍大将の佐久間左馬太<(注26)>が・・・1906年・・・に第5代台湾総督に就任<するが、彼は>・・・9年間にわたり在任し、・・・19名の総督のなかで、もっとも在任期間が長かった。・・・
(注26)1844~1915年。「陸軍軍人、華族。・・・台湾総督・東京衛戍総督・近衛師団長等を歴任し、最終階級は陸軍大将に昇る。・・・長州藩士・・・。奇兵隊に入隊し、大村益次郎の元で西洋兵学を学ぶ。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E5%B7%A6%E9%A6%AC%E5%A4%AA
佐久間総督と交代した安東貞美<(注27)>総督は、1915年6月に赴任するとほぼ同時に、大規模な蜂起である「西来庵事件」(「タバニー事件」ともいう)が起こった。この事件は・・・ほぼ台湾全域におよんだが鎮圧され、866名に死刑判決が下された<が、>・・・大正天皇の即位式の恩赦があり、<まだ処刑されていなかった>766名が無期刑に減刑された。こ<れ>・・・を境に、台湾人の大規模な武力抵抗は終息した。・・・
(注27)1853~1932年。「陸軍軍人。朝鮮駐剳軍司令官、第10師団長、第12師団長、台湾総督などを歴任した。・・・陸軍大将・・・支那の飯田藩<士>・・・大阪陸軍兵学寮・・・を卒業・・・貞美の長男貞雄は陸軍士官学校を29期で卒業し陸軍大佐に進む。また、貞美の娘は陸軍少将服部兵次郎、陸軍中将本郷義夫、東京帝国大学教授桑木厳翼、外交官太田喜平、同前笠原太郎に其々嫁ぐ。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%9D%B1%E8%B2%9E%E7%BE%8E
→台湾における日本の植民地支配への抵抗が、全く外国からの支援なくして、10年間にもわたって、執拗に続いたことは、驚異であると言うべきでしょう。(太田)
安東総督の後任の明石元二郎<((コラム#266、5782、5790)>総督は、在任一年余りで任期中に日本で病没したが、その遺志により遺骨は台湾に運ばれた。「骨を台湾に埋めた」ただ一人の台湾総督である。」(94~98)
→このあたりに登場する日本人は、ことごとく(弥生人の後裔たる)武士出身であり、幕末の混乱期に青少年期を過ごした者も多いこともあり、いずれもさしたる公教育を受けていませんが、政治家、軍人、行政官、すなわち、日本の指導者として立派な業績を挙げたように見えます。
彼らの最大の失敗は、彼らが、自分達の後継者を養成するシステムの整備に手落ちがあったことです。
すなわち、彼らが、指導者養成という点では遜色がある、陸士海兵と旧制高校/帝大しか残さなかったことは、まことに悔やまれます。(太田)
(続く)
台湾史(その10)
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