太田述正コラム#6569(2013.11.12)
<台湾史(その11)>(2014.2.27公開)
「日本は、1918年9月に政友会を基礎とした原敬<(コラム#51、3772、4327、4329、4596、4598、4604、4627、4640、4647、4649、4669、4752、5589、5704)>内閣が発足したことで・・・政党政治の端緒についた。<そして、>・・・台湾総督に文官が就任した場合は、軍政と軍令は台湾軍司令官が統轄し、総督は一般政務に関する統理権のみを有し、安寧秩序の維持のため必要と認めるときには、台湾軍司令官に兵力の使用を請求できることとした。
原敬は外務次官当時の1896年2月、台湾事務局に「台湾問題二案」(同化政策と非同化政策の二案)を提出し、台湾統治に関する基本政策として、フランスの植民地のアルジェリアにならい、「内地延長主義」(国内の法律や制度を、植民地に延長して適用させる)の同化政策を主張した。この原の提案は否定こそされなかったが、後日の後藤新平の「生物学的植民地経営」とは明らかに違っていた。日本政府と台湾総督府がとった施策は、原敬の急進的な同化政策でもなければ、後藤新平の・・・非同化政策でもなく、その中道をゆく「漸進同化政策」であった。・・・
原敬は首相に就任すると持論の実現に向け、台湾総督府の官制を改正しただけでなく、台湾総督の立法権にも制限を加えた。・・・
原敬内閣のもとで1919年10月に、田健治郎<(注28)>が初の文官総督に、陸軍大将の柴五郎<(コラム#752、755、5034)>が台湾軍司令官に任命された。」(100~101)
(注28)1855~1930年。「官僚、政治家・・・。・・・衆議院議員・貴族院議員・逓信大臣・司法大臣・農商務大臣・台湾総督・枢密顧問官等を歴任。・・・田英夫(参議院議員)は孫。・・・現在の兵庫県丹波市<の>・・・豪農<の家に生まれる。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%81%A5%E6%B2%BB%E9%83%8E
→伊藤は、ここでも、「アルジェリア」以外のフランスの植民地統治や、欧米諸国の植民地統治との比較をせよとまでは言わないとしても、せめて、日本の朝鮮半島統治との比較を総論的にでも行って欲しかったと思います。
また、そもそも、「同化政策」、「非同化政策」という括り方は雑駁過ぎです。
植民地である以上は、その統治に同化の部分と非同化の部分があるのは、(超長期的にはともかく)当然であり、問題は、当面、いかなる割合のいかなる部分を非同化とするのか、でしょう。
伊藤は、後藤と原敬に、それぞれ、「非同化政策」、「同化政策」という単純過ぎるレッテルを貼るのは控えるべきでした。(太田)
「台湾人が合法的な政治組織を通じて、日本の植民地統治に抵抗した最初は、1914年12月に発足した「台湾同化会」の運動であった。台湾同化会は、・・・板垣退助を中心に、台湾中部随一の資産家であ<った>・・・林献堂<(注29)>(1881~1956年)らの奔走で結成され、「内地人(日本人)台湾人ヲ以テ組織シ、互ニ親睦交際ヲ厚クシ、渾然同化ヲ計り、以テ一視同仁ノ皇猷ニ応ヘ奉ル」ことを趣旨とする組織であった。しかし、この運動に加わった台湾人の真の目的は、日本への同化よりも日本人と平等の待遇を要求することにあった。そのため、運動は、・・・「公安ヲ害スルモノ」とされ、台湾同化会は翌年2月に解散を命じられた。わずか2ヵ月の台湾同化会ではあったが、台湾各地に散在する、政治に関心をもつ台湾人有志を結集させ、その後の台湾人の政治運動に大きな役割を果たした。このとき台湾同化会で林献堂と板垣退助の通訳を務めた蔡培火<(注30)>は、政治運動への参加を咎められて、台南公学校の教職を失い、林献堂の援助で東京高等師範学校に留学した。その後、蔡培火は東京で林献堂と台湾人留学生を結びつけることになる。」(102~103)
(注29)1881~1956年。「1919年には・・・<台湾からの>留学生<達>と共に、六三法撤廃を目指した“啓発会”を設立し、翌年東京にて“新民会”と改称、林献堂は会長に就任。1921年1月より林献堂は日本の国会に対し、台湾議会設立の要望を提出し、第1次台湾議会設置請願運動を展開する。同年10月、台湾文化協会を設立させる。・・・台湾人の民族意識向上のため、台湾文化協会は1923年より『台湾民報』を創刊、林献堂が社長に就任。日本人資本に独占されていた銀行、信託、保険等金融業に対し、2年の準備期間を経て「大東信託株式会社」(1927年2月成立)を開設。林献堂を董事長に・・・選出。1927年1月、台湾文化協会が分裂、左派色の強くなった文化協会を退会。1927年7月、台湾民衆党を結党。1930年、台湾地方自治聯盟を結成し顧問に就任。1946年5月、第1回台湾省参議会議員選挙に当選。・・・1947年2月28日、二・二八事件が発生。“台省漢奸”と称されるも難を逃れる。1949年9月、病気を理由に台湾を離れ日本に移る。1956年、東京杉並区久我山において客死。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E7%8C%AE%E5%A0%82
六三法とは、明治29年法律第63号(六三法)、すなわち、台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律のこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%83%8B%E6%96%BD%E8%A1%8C%E3%82%B9%E3%83%98%E3%82%AD%E6%B3%95%E4%BB%A4%E3%83%8B%E9%96%A2%E3%82%B9%E3%83%AB%E6%B3%95%E5%BE%8B#.E6.98.8E.E6.B2.BB29.E5.B9.B4.E6.B3.95.E5.BE.8B.E7.AC.AC63.E5.8F.B7.EF.BC.88.E5.85.AD.E4.B8.89.E6.B3.95.EF.BC.89
(注30)1889~1983年。「1920年、「台湾民報」の編集と発行人を務めることとなった。さらに、1923年には台湾文化協会に加入し、「台湾議会設置請願運動」の推進に協力した。しかし、その後治安維持法違反によって逮捕され、蒋渭水とともに4ヶ月の刑を受ける。さらに1927年には文化協会が分裂し、蔡培火は蒋渭水らと共に台湾民衆党を結成した。ところが台湾民衆党においても、蒋渭水による労働者農民運動を支持する動きに対して不満が募り、1930年8月、蔡培火は台湾地方自治聯盟に加入し、12月には台湾民衆党から除籍される。・・・蔡培火は1945年の日本降伏後すぐに中国国民党に加入し、1年後に台湾に戻った。1948年の立法委員選挙に当選し、1950年には・・・政務委員に就任した。また、1952年には中華民国赤十字本部本部の副会長と台湾省分会の会長を兼任する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%A1%E5%9F%B9%E7%81%AB
政務委員は無任所大臣に相当。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E6%94%BF%E9%99%A2
→台湾では、差別撤廃、自治権獲得に向けての運動も活発に行われたわけです。
これも、朝鮮半島では殆んど見られなかったことです。
それどころか、「姓を持つことを許されていなかった白丁などの賤民・・・<の>1909年<の>・・・身分解放に反発する両班は激しい抗議デモを繰り広げた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE
という有様でした。(太田)
(続く)
台湾史(その11)
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