太田述正コラム#6581(2013.11.18)
<横井小楠コンセンサス(その2)>(2014.3.5公開)
(5)対ロシア抑止
「<ロシアは、>南は黒海・トルコに至り、東はアジアの藩属国に接し、西はヨーロッパの諸州に連なり、大約東西に長くして南北に狭し。広大かくのごとくなれども黒海のアゾフ・白海の沢加牙<(アルハンゲリスク)>・東海<(バルト海)>の・・・利芽<(リガ)>の諸港と東北隅にカムサッカあれども、共に海運に便ならずして遠略を務むるに利あらず。ここにおいて裏海にそうて陸路より西北の西インドを略し、ついに東・南・中の三インドを取って英国の膏腴<(地味が肥えていること。また、そういう土地や、そのさま。
http://dictionary.nifty.com/word/%E8%86%8F%E8%85%B4?dic=daijisen
)>を殺ぎ、インド海に向うて大いに航海を開き雄図を海内にほしいままにせん事を希望し、コーカサスの大山を隔てて英とアルメニアを争い兵結んで解ざること数年、魯もし志を得れば英必ず屈すべきの勢いなれば英全力を竭<(つく)>してこれを捍拒<(かんきょ)>す。これ英・魯の仇讎<(きゅうしゅう)>をなす原因なり。
近年魯またトルコを略して地中海より航路を大西洋に開かんとせしを、英・仏これを助けて魯と抗拒して黒海および地中海に戦う。・・・魯なお大志を遂げざるを慍<(いか)>り、間<ちょう>をインドに遣って各自の国王を慫慂して・・・英の所轄を掠略せんことを謀り、
→英露のグレートゲームを描き、クリミア戦争に触れた上で、ロシアがインドにも食指を伸ばしていることを述べていす。(太田)
また満清に約して黒竜江の地を借り馬頭を開き、日本海に向うて大いに航路を通じ、宿志を朝鮮海より南大洋に〇<(読めず(太田))>んとす。
議すでに決して黒竜江より都府ペテルブルグに到って七千余里火輪車の鉄道を造り畢<(おわ)>るといえり。
魯国の日本に通じて慇懃をいたしまた蝦夷の経界を論ず、その根拠知るべきなり。
→ロシアが日本侵略を意図していることを示唆しています。(太田)
黒竜江はわが北蝦夷のサハリンに隣ればその馬頭繁盛にいたらば諸州の船舶日本海に輻輳して、英・魯の戦争もまた数年ならずして日本海面に起こらんとするの勢いあり。
この時に当って日本咽喉の地にありてその●<(読めず(太田))>背大いに二国の 強弱に関係すれば、二国必ず日本を争うべければ日本の危険もっとも甚しというべし。
→これを阻止しようとして、英国も日本を狙わざるを得ず、その結果、日本の周辺海域で英露の武力衝突が起こる可能性が高い、と指摘しています。(太田)
今年英・仏退去して満清を討ち天津を破り京畿に迫る。
魯<いっぽう>の勢いを傍観して一虎の斃るを待つに似たり。
魯もし志を支那にほしいままにすることを得ば実に獲るべからざるの強盛をいたすべし。
→第二次アヘン戦争(アロー戦争。1856年~60年)に言及しつつ、この戦争を戦って支那に勝利した英仏より、この間、虎視眈々と支那全体の保護国化に向けて布石を打っているロシアの方が危険である、と喝破しています。(太田)
英の畏憚するもまた宜なり。
→英国にシンンパシーを寄せています。(太田)
海外の形勢かくのごとく日新月盛なるに日本ひとり太平の安を偸んで、驕兵を駆って児戯に等しき操練をこととすとも何ぞ敵愾の用をかなすべき。」(268)
→英国任せにするのではなく、日本自ら驕兵ならぬ強兵を養成してロシアに対峙すべきことを示唆しています。(太田)
⇒横井が対ロシア抑止戦略の推進を主張していることは、以上を深読みするまでもなく素直に読めば、明らかでしょう。
横井が、米英を特記する形でその自由民主主義を讃嘆し、かつこのようにロシア抑止戦略の推進を主張しているのは、裏を返せば、ロシアが非自由民主主義国だからこそ日本にとって脅威であると見た、ということを強く推認させます。
そして、横井の富国強兵論は、対ロシア抑止戦略推進のための手段として唱えられた、とも考えられるのです。
3 終わりに
松本三之介(注3)は、『近代思想の萌芽』の解説の中で、横井の反露観ないし対ロシア抑止戦略に全く触れていません。
(注3)1926年~。「1948年東京大学法学部卒業。東京大学で丸山真男に師事。大阪市立大学法学部助教授(現准教授)を経て、1964年東京教育大学文学部教授、1975年東京大学法学部教授。退官後、駿河台大学法学部教授を歴任。丸山の近世政治思想史研究を引き継ぎ、近世国学や明治期の法思想などの分析をおこなった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E4%B8%89%E4%B9%8B%E4%BB%8B
全く気付いていないのだとすれば、無能の誹りを免れませんし、気付いていてあえて触れていないのだとすれば、曲学阿世の誹りを免れないでしょう。
私の手元に、松浦玲(注4)による『横井小楠』(朝日新聞社 1976年)という横井の評伝(全291頁)があるのですが、松浦に至っては、(当然のことながら)『国是三論』の紹介(173~179)も行いつつ、松本よりも徹底していて、(5)で紹介したくだりの文章を引用することすらなく、完全に無視しています。
(注4)1931年~。「京都大学在学中の1953年・・・、全学連主催の学園復興会議の京大での開催に奔走した。しかしその過程で起こった荒神橋事件などの混乱の責任者とされ、大学当局による放学処分(復学を認めない除籍処分で退学より重い)を受けて中退(松浦君放学事件)。その後、立命館大学大学院を修了し、京都市史編纂所主幹から桃山学院大学教授に就任。幕末・明治時代の政治史・思想史に関して多くの著書や論文がある。特に横井小楠および勝海舟の研究者として、高い評価を受けている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E7%8E%B2
「荒神橋事件・・・は、1953年11月11日、立命館大学広小路キャンパスでの集会に合流しようとした京都大学の学生デモ隊と警官隊が京都市内の荒神橋上で衝突した事件である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E7%A5%9E%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6
それどころか、松浦は、
「『国是三論』を書いた1860年よりも8年も前の嘉永6年(1852年)のプチャーチン来航時の「是は<アメリカと>同じ穴の狐にては御座有るまじく、全体ヲロシヤは御案内通り世界第一の大国、イギリスなどは元来その属国に候処、文政の初めかより強大に相成り独立いたし、ヲロシヤの命令も受け申さず全体中悪しくこれあり、此の節の北アメリカも同様にて、是等の夷人強大はヲロシヤの実情大に悦び申さずと存ぜられ候」と、あやしげな知識を振り廻しながら、アメリカと申し合わせて日本をゆさぶりに来たのではないと断定する。むしろ、アメリカの持ってきた災難を日本がうまく切り抜けるよう助言し、日本とアメリカの戦争をロシアがうまく収めたという名声を世界に輝かすつもりだろうと推測するのである。」(同書110頁)
と、「あやしげな知識」しかまだ持たなかった頃の横井の親露ぶりを長々と披露してさえいます。
これは、松本にしても、松浦にしても、日本の戦後の人文社会科学界で通説的地位を占めて来たところの、マルクス主義史観、つまるところはスターリン主義史観に基づき、或いは同史観に敬意を表して、横井の言動の中から、反露ないし対ロシア抑止戦略的な部分を自主パージした、という可能性が大です。
なお、このような背景の下では当然と言うべきでしょうが、横井小楠<(注5)(コラム#1609、1610、1613、1618、2129、3770、3855、4002、4004、4285、4303、4320、4366、4374、4581、4581、4582、4597、4599、4647、4648、4669、4694、4701、4779、4795、4875、4917、4945、5376、5380、5412、5434、5569、5602、5973、5975、6520)>についてのウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%B0%8F%E6%A5%A0
にも横井の反露的記述は全く出てきません。
(注5)改めて横井についてだが、1809~69年、「熊本藩士・・・、儒学者、政治家。・・・熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派による攻撃により失敗。その後、福井藩の松平春嶽に招かれ政治顧問となり、幕政改革や公武合体の推進などにおいて活躍する。明治維新後に新政府に参与として出仕するが暗殺された。・・・横井家は桓武平氏北条氏嫡流得宗家に発する。北条高時の遺児・北条時行の子が尾張国愛知郡横江村に住し、時行4世孫にあたる横江時利の子が、横井に改めたのがはじまり・・・」(ウィキペディア上掲)、を読むにつけ、北条得宗家が日本史に残した巨大な足跡に驚嘆せざるをえない。
松浦の本を読み返して得た唯一の収穫は、元治元年(1864年)に横井が井上毅(コラム#4524、4669、4772、4782、5434、6563)>に語った次の言葉を「発見」したことです。
「イギリス<や>・・・オランダ<が>・・・植民地をにぎって離さないのは根本が他を利する心ではなくて己を利する心だからで、至誠惻怛<(注6)>の根元がなく、至公至平の天理に則ることができない。
(注6)しせいそくだつ。「「幕末期の儒家・陽明学者のひとりである山田方谷という人の残した・・・言葉・・・「至誠」というのは真心を意味し、「惻怛」というのは痛み悲しむ心を意味している・・・」
http://www.meigen.sakura.ne.jp/category4/entry26.html
ただ、あまり甚だしい暴虐を働くと叛乱でひっくりかえされるから、そうならないように、寛政をおこなっているだけだ。
つまり西洋人の仁は末があって本がない。元来は利害上から出たもので「向ふ捌<(注7))>」だというのである。
(注7)「(ハチ)漢数字「八」の大字。」
http://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%8D%8C
「向ふ捌という表現は、よくわからないが、相手の事情に応じて適宜に処理するということであろうか。
要するに西洋の政治は、結果的には「仁の効用」を得ているけれども、出発は本当の「仁」でないのである。」(同書240頁)
つまり、私の言葉に置き換えれば、横井は、欧米の自由民主主義国も、人間主義度においては日本に劣る、と言っているのであり、1852年、1860年、1864年の横井の一部の言を拾っただけで、彼が短時間のうちに恐ろしいほど欧米理解を深めるとともに自分の思想を深化させて行ったことが分かります。
このようにして横井が最終的に到達した思想は、これまでに登場した由利公正や井上毅、更には、 『国是七条』を説いた相手の坂本龍馬
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%B0%8F%E6%A5%A0 前掲
や「今までに恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南洲とだ」と『氷川清話』で記した勝海舟
http://www.geocities.jp/npowaro/raku-13.htm
らによって、確実に明治以降の日本の指導層の間に浸透し、定着して行ったことでしょう。
私が名付けたところの、「横井小楠コンセンサス」という言葉が普及し、人口に膾炙するようになることを願って止みません。
(完)
横井小楠コンセンサス(その2)
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