太田述正コラム#0218(2003.12.31)
<現代日本の越し方行く末(その1)>
(日本政府は、沈黙(コラム#217)を破り、「住民投票や新憲法制定に関する陳水扁総統の発言が「中台関係をいたずらに緊張させる結果になっており、憂慮する。地域の平和と安定のため、慎重に対処することを望む」と台湾政府に申し入れを行いました(毎日新聞。http://news.msn.co.jp/newsarticle.armx?id=655809。12月29日アクセス)。)
年末から年始にかけて、現代日本の越し方と行く末について論じることにしました。
1 越し方
コリン・ロス「日中戦争見聞録―1939年のアジア」(講談社学術文庫2003年。1940年の原著の部分訳)からの引用に、ハインリッヒ・シュネー「「満州国」見聞記」(講談社学術文庫2002年。1933年の原著の部分訳)による脚注をつけ、最後に私のコメントを付すことにします。
(1)日本
「日本人は単に戦士なのではない。まず第一に戦士、というわけでもない。そればかりか日本人はそれよりも強い度合いで、繊細でものに感じやすい魂と精神を重んじる人々である。・・日常のつらくて苦しく、しかも何ら感謝されることのない些細な仕事の中で、彼らの心意気が示される・・。」(65、72頁)、「日本は国際社会とくに民主主義諸国家から、無造作に全体主義あるいはファシズムの国と銘打たれている。こうした定義づけをされるとドイツ人、イタリア人はいくらか侮辱された程度にしか感じないが、日本人はこれを断固拒否する。・・荒木<貞夫>文相は「皇道」の定義として「天皇の共和国」という表現を用いた。・・皇道においてはドイツ的意味における民族も人種も存在しない。・・これにより荒木大将は日独両国のイデオロギーの根本的、本質的区別に言及したことになる。」(41??42、44頁)(注1)、「政治を決定するサークルの中では、きわめて親独的な陸軍とはちがう流れ、別の方向を辿る者たちが今のところ主導権を握っている。」(51頁)、「日本人は・・自分たちが中国の文化を受け入れたものの、これを変容させることによって独自の文化、より高度の文化をつくりあげたと考えており、さらに西欧文明と取り組んだ際も似たような事業に成功したと確信している。」(66頁)、
(注1)「私としては、日本の対外政策があまりにも国内政局の動きや、国民世論によって左右されすぎているとの印象を受けた。」(シュネー182頁)
(2)日本の植民地政策
「日本人は朝鮮人の生活水準を向上させ、これにより彼らの歓心を得るためのあらゆることを行なった。日本人が多くを成し遂げたことは認めなくてはなるまい。」(96頁)(注2)、「日本人は内モンゴルを支配するようになってから、しきりに都市や国土全体を歴史ゆかしいモンゴル的な性格に引き戻そうと努めてきた。中国風の名称は再びモンゴル風のものに変更され、漢字は蒙古文字に書き改められた。」(165??166頁)、「日本人は・・中国人を日本化することなど考えておらず、逆に中国人を中国人の生活の源泉である儒教に連れ戻そうと努めている。」(188??189頁)、「満州・・には新しい国、広々とした将来を約束された国、無限の可能性を秘めた国がある。ここでは第二のアメリカがアジアの沙漠と荒地からなるこの土地から生まれる。・・たとえ血筋、言語、文化からいって中国人であるとしても、この国の居住者を満州人と呼ぶのは、政策や宣伝を超越した正当性がある。またちょうど同じことが、日本人についてもあてはまる。・・<満州の居住者たる日本人>は、すでに列島に住む日本人とはかなりかけ離れていた。そのことはおそらく特別の雰囲気をかもし出す満州の気候や土地の影響ばかりではなく、ここでは日本人がもともと不得意であること、すなわち迅速に決意し、かつ速やかに行動する、ということが必要となって形成された気質であろう。」(104、116??117頁)
(注2)「<朝鮮には>いたるところ水田、河川、緑の山丘があった。・・朝鮮の山岳は日本が朝鮮を併合するまではほとんど禿山ばかりであった。・・日本人はまた質量の両面で、朝鮮の稲作を大いに発展させた。」(シュネー176??177頁)。シュネーらリットン調査団一行は、京城帝国大学で、古代の朝鮮書籍の印刷や文字の見本を見せてもらい、朝鮮総督招宴では、朝鮮の地酒を振舞われ、古い朝鮮音楽が演奏され、140年前の宮廷舞踊、1000年前からの仮面舞踊、750年前の高麗時代にできた舞踊、が演じられた(シュネー172??176頁)。
(3)蒋介石政権
「蒋総統の畢生の事業の破綻の原因は、・・中国人の未熟さにある。・・中国の悪しき遺伝体質、賄賂に対し、総統は人間わざでない戦いを挑まなければならなかった。」(295??296頁)(注3)、「宋美齢・・という存在がなければ、日本は蒋介石と和解していたであろう。・・中国の支配者は、日本の侵攻前も侵攻後も宋三姉妹である。・・<維新期の日本とは違って>孫文は西欧の論理に息せき切って飛び込み、ほぼ無条件にそれを祖国に導入しようとした。宋三姉妹の三重の影響に阻まれなかったならば、日本で教育を受けた蒋介石は、・・方向修正し、日本と同様、革命を維新に変貌させることができたであろう。宋三姉妹は、中国大陸と結婚した。この結婚によって三姉妹は中国民族とその将来に対し、途方もない責任、彼女たちには思いも及ばぬ重い責任を担うことになった。」(298、299、304??305頁)(注4)
(注3)「中国人・・の欠点・・の一つ・・は・・だれでもできるだけ好機を見逃さず他人の金を自分のふところに入れてしまうことである。」(シュネー101頁)、「上流社会の中国人は一般に兵士を見くだし、自ら軍隊に入ろうとはしなかった。古くからの考え方によれば、軍隊に入るのは恥ずかしいことであった。・・兵士は圧倒的に下層階級出身者が多かった。・・生計を保つのはむずかしく、金持ちになるためには戦利品を略奪するのが一番簡単であった。」(シュネー149頁)
(注4)家族は中国人の基盤である。「孝」はあらゆる義務の中で最も重要である。ついで家族、親類に対する義務が重要視されている。西欧諸国と比べ、親類縁者の世話をやき、養育する義務ははるかに重大である。この道徳観念によって、中国人の血族間の結束は西欧人のそれと比べてはるかに強力である。」(シュネー98??99頁)
(4)支那事変
「中国人は昔から日本人を見下し、この島国民族を劣等模倣民族・・と見なしてきた。しかも・・全体主義国家日本を道徳的、社会的に中国が凌駕していると欧米民主主義大国がお墨付きを与え、中国はこれを後生大事に守ろうとしている。」(288頁)(注5)、「もともと日中戦争という言い方は正しくない。むしろこれは中国における中国をめぐる戦争である。・・自分たちは中国の民衆を相手に戦っているのではないという日本人の主張は正しい。・・少なくとも部分的には中国人が日本人を敵視していないケースが見受けられる。さもなければ、北京のような百万都市でも、一般に市街地に入ってゆかないことになっているわずか数千人の日本軍しか駐屯していないことをいかように解釈すべきであろう?・・疑いもなく、日本軍と協力している少なくともかなりの部分の中国人は、国家主義的愛国者である、彼らは蒋介石を信用できなくなったか、あるいは一度も信用したことがなかった人々である。彼らはもし外国人の支配と外国人の影響に甘んじなければならないとしたら、その外国人はヨーロッパ人よりはむしろアジア人、ロシア人やイギリス人よりはむしろ日本人のほうが望ましいといっている中国人愛国者たちである。」(186??188頁)、「広大な中国の占領地全体の中で、実際にはただ鉄道のみが日本軍によって管理されている・・これで万事はうまくゆく。鉄道路線を持続的に保持することだけで、ついには一国を獲得できることを日本人は満州で証明した。」(193頁)、「不測の事態が発生しない限り、日本は中国民族の親日派の協力を得て、ここ数年のうちに中国の大部分を支配下あるいは影響下に収めるであろう。一方、それ以外の相当部分は、ソ連あるいは親ソ派の影響下に入ると思われる。」(288頁)(注6)
(注5)「大阪の工業、海運、銀行関係の代表者約20人・・は、日本の商社や海運業者が中国人の日本品ボイコットによって大損害を受け、これまでの実績の三分の一が失われたと主張した。」(シュネー50頁)
(注6)「日本<の>公安当局<は>共産主義の動きに絶えず注目し、とくに隣接国からの共産主義の影響をできるだけ遠ざけようとしている・・」(シュネー183頁)
(続く)