太田述正コラム#6601(2013.11.28)
<台湾史(その14)>(2014.3.15公開)
「終戦当時の在台湾の日本人は、軍人16万6000余人を含めて、およそ48万8000余人であった。・・・引き揚げは軍人から開始され1946年2月に完了した。一般人は日本本土の混乱と食糧難、台湾の生活になじんでいること、敗戦とはいえほとんど台湾人からの報復がなかったことなどから、約20万人が台湾にとどまることを希望した。しかし、台湾を接収した国民党政権は、大量の日本人の残留を許さず、また、インフレをはじめとする社会的な混乱が生じたことにより、1946年3月までに全員が帰国を希望している。
日本人の引き揚げは1946年4月20日に完了した。引き揚げ者は一人につき現金1000円と途次の食糧、リュックサック二袋分の必需品の携帯が許された。半世紀をかけて営々と築いてきた、有形無形の財産のあらかたを残しての帰国である。結局、帰国したのは軍人を含め46万人弱で、国民党政権が必要とする技術者や教師など2万8000人弱が「留用者」として残った。
引き揚げがほぼ完了した1946年4月13日、最後の台湾総督の安藤利吉が戦犯として逮捕された。安東総督は上海に送られたが、そこで自殺した。戦犯としての屈辱を潔しとせず、任務を全うした後の自害であった。」(134~135)
→ここでも伊藤は、朝鮮半島の引き揚げ者との比較を行ってくれていません。
現金1000円云々は、朝鮮半島、とりわけソ連占領下に置かれた北半分でも(それが実行できたかどうかは別にして、)同じだったのか、等自分で調べようと思ったのですが。果たせませんでした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%95%E6%8F%9A%E8%80%85 (太田)
「蒋介石の国民党政権は、・・・台湾を日本政府から接収するための先遣人員80余名<を>10月5日に米軍機で台北に降り立<たせた。>・・・
つづいて10月17日、国民党軍2個師団1万2000余と官吏200余名が、米軍機の護衛のもと30余隻の米国艦船に分乗して基隆港に上陸し<た。>・・・このときの国民党軍の低い士気とわびしい身なり、劣悪な装備を目のあたりにした多くの台湾人は、・・・「日本はアメリカには負けた、中国に負けてはいない」という噂の正しかったことを確信したのである。・・・
陳儀行政長官は、1945年10月24日に・・・上海から米軍機で台北入りした。翌25日・・・「中国戦区台湾地区降伏式」が行なわれた。・・・この日から台湾人の国籍は中華民国となり、「本省人」と称され、中国から新たに渡ってきた中国人を「外省人」と称して区別した。・・・<そして、>膨大な資産<を>・・・接収した。・・・
日本人が律気に作成した財産目録にもとづき外省人官吏が接収するが、その目録は改竄され、接収財産の一部は着服されて姿を消した。・・・日本の教育が浸透し、法治国家の市民に成長していた台湾人の目には、「祖国」の官吏の公私混同と腐敗ぶりは、これまた驚嘆すべきものに映った。戦時体制下の「滅私奉公」が、一転して「滅公奉私」の世となり、台湾人の胸中には「祖国」と国民党政権への失望と軽蔑が芽生え、日を追って膨らんで行った。・・・
接収された主な公営および民営企業はその後、国民党政権のもとで国営、または台湾省営の公営企業となっている。・・・
過去の総督府評議会は台湾省参議会に、州および市の協議会は県や市の参議会に改めたが、従来同様に諮問機関であり議決機関ではない。・・・
国民党は「レーニン式の一党独裁」に近い政党であり、「以党治国」(党が国を治める)をめざした。台湾の占領にともない、国民党の人員が派遣され、党の組織整備にあたった。台湾省には省党部がおかれ、地方には県党部、市党部、鎮と郷には区党部が設けられている。それぞれの党部には「党工」と称される専従の工作員が配置され、各級の行政機関を監督し、指揮した。
国民党政権は特務機関と称される治安情報組織をその統治の支柱としており、日本の敗戦直後に特務人員を台湾に潜入させ、いたるところにその組織網を広げて行った。その後、警備総司令部の特務室を頂点に、長官公署から末端の地方行政機関はもとより、公共団体や学校、公営企業にいたるまで、特務の監視網が張りめぐらされた。
このように国民党政権は台湾に移転する前から早々と、「党(国民党)」「政(行政)」「軍(軍隊)」「特(特務機関)」からなる独特の統治体制を整えていたのである。これだけ錯綜した統治組織の維持には、当然に人員も膨らみ、日本統治末期の台湾総督府本庁の人員は約1万8300名であったのに対し、長官公署は約4万3000名であった。・・・
台湾総督府はじめ行政機関や日本企業は台湾人を差別し、ほとんど上級職に登用することはなかったが、下級職には優秀な台湾人がたくさんいた。これら能力ある台湾人は、「祖国」に復帰したからには、活躍の場を得られると期待していたが、果たせなかった。国民党政権は重要なポストや管理職のほとんどを外省人で独占した。しかも学識や経験、能力に劣る者が多かったため、台湾人の不満を募らせた。」(138~142、144~145)
→私は、かねてから、蒋介石政権は、腐敗したファシスト政権である、と評してきたところ、その実態が生々しく紹介されています。
こんな政権に、その全球的覇権国化の野望まで見透かされたのかどうかはともかく、ものの見事に誑かされ、こんな政権と手を組むことによって、自由民主主義国家たる日本帝国を崩壊させた米国に対し、改めて怒りの念がこみ上げてきます。
また、現在の中共(中国共産党政権)が、しばらく以前から、ほぼ、当時の国民党政権生き写しの、腐敗したファシスト政権へと変身を遂げていることに、兄弟党としての血は争えないな、と感慨を覚えます。
なお、伊藤は、日本支配下と国民党支配下の台湾の公務員数の比較にあたって、その定義なり算定方法なりを少しは記述すべきでした。
「党」は法的には公務員ではないが、「長官公署」の数に算入されているのか、「特」はそもそも公務員なのかどうか、また、同じく、この数に算入されているのか、等についてです。
更に言えば、「行政機関や日本企業は台湾人を差別し」ていた旨の伊藤の記述は、最低限の典拠すらついていないのですから、額面通り受け取ることはできません。(太田)
(続く)
台湾史(その14)
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