太田述正コラム#6605(2013.11.30)
<台湾史(その16)>(2014.3.17公開)
「国民党政権は・・・長官公署を撤廃し、「台湾省政府」を設置、米国に受けのよい外交官の魏道明<(注38)>を台湾省政府主席に任命した。<彼>は<1947年>5月16日に就任し、翌日、戒厳令の解除と「二・二八事件」関係者の逮捕の中止を声明した。しかしこの声明に反して、事件関係者の逮捕と処刑は依然としてつづけられた。
(注38)1901~78年。「パリ大学で法学博士を取得・・・1941年の暮れ、魏道明は行政院秘書長から、駐仏大使を任命される。さらに翌年には胡適と交代で駐米大使となった。この駐米大使の期間中、魏は中国の国際外交における地位の改善に力を注いだ。1943年、魏道明は駐米大使として条約改正に臨み、アメリカとの不平等条約の廃止に調印し<た。>・・・1947年11月、台湾省は中華民国第1回立法委員選挙と国民大会代表選挙を行った。・・・魏道明は台湾省政府で1年7ヶ月の間任務に就き、1948年末に職を辞してアメリカに渡った。<そして、>・・・蒋介石の腹心である陳誠が後任の台湾省主席となり、1949年1月5日に交代した。・・・1959年に外交部顧問となり、1964年には駐日大使に任ぜられる。2年後に帰国して・・・外交部長に就任した。外交部長の任期中は、自ら毎年ニューヨークの国連本部に赴き、いわゆる国連代表権の維持のために奮戦した。1971年に外交部長を辞し総統府資政に転じる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E9%81%93%E6%98%8E
→「支那人は裏切りと欺罔の天才」(コラム#6600)ですから、約束などいつ反故にされるか分からないことを肝に銘じましょう。(太田)
<同>主席は、台湾人を懐柔するため、台湾省政府委員の14名中7名に台湾人を任命した。また、省政府高官にも台湾人を起用したが、それは満州国における「内面指導」とさして変わるところはなかった。つまり、満州人の配下にある日本人が実権を牛耳ったように、台湾人高官のもとで、部下たる外省人が実権を掌握したのである。
・・・国民党政権は台湾への移転に向けて本格的な準備を始めていた。そのために魏道明主席は、就任1年8ヵ月後の1948年12月29日に解任され、代わりに蒋介石の腹心である陳誠<(注39)>将軍が台湾省政府主席に任じられた。同時に蒋介石の長男の蒋経国<(コラム#177、179、352、353、377、1015、2364、3039、3446、4735、4936、4946、4950)>(1910~1988)が、中国国民党台湾省委員会主任委員に就任した。また、次男の蒋緯国<(注40)>の率いる、陸軍の精鋭部隊である戦車兵師団も台湾に移動した。陳誠主席は翌1949年1月に警備総司令官を兼任し、2月に各地の港と河口を封鎖、海岸線も官制下におき、許可証を所持しない軍人や官吏、商人などの台湾上陸を厳しく制限し、中国から滔々と押し寄せる難民の流入に歯止めをかけた。さらに5月1日零時を期して一斉に戸籍調査を実施し、20日には戒厳令を施行した。この戒厳令は、1987年7月15日に解除されるまで、実に40年に迫る世界一長い戒厳令となった。
(注39)1897~1965年。保定陸軍軍官学校、黄埔軍官学校卒。北伐、中国共産党掃討作戦、日支戦争で活躍、国共内戦時は参謀総長。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E8%AA%A0
(注40)1916~97年。蒋介石の養子。「生父は戴季陶であり、母親は日本で看護師をしていた重松金子・・・東呉大学経済学科に学び、1936年にドイツへ赴き、翌年ドイツ軍に入隊、ドイツ陸軍ミュンヘン士官学校に入学している。卒業後もドイツ国防軍の軍務に就き続け、第二次世界大戦初期、ドイツ陸軍少尉として装甲部隊に所属し、ポーランド侵攻に従軍した。しかし日独伊三国同盟構想が強まると中国に帰国、その後は中華民国国民革命軍に入隊し、日中戦争及び国共内戦に参加している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E7%B7%AF%E5%9B%BD
なお、戴季陶(1891~1949年)は、日本大学中退。「国民党の文教政策の重鎮・・・戴季陶は1917年『日本観察』、1919年『わが日本観』などでその日本への関心をあらわしている。1927年『日本論』は、それら論文の総仕上げであ<る。>・・・竹内好は、戴季陶が自殺したという説について紹介し、自殺の原因として「中国共産党政権に追いつめられたというより、国民党の腐敗に対する絶望のためではないか」と推測している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B4%E5%AD%A3%E9%99%B6
→蒋介石は、長男の経国をスターリン主義のソ連へ、「次男」の緯国をファシズムのドイツへ留学、というより「同化」させるべく、送り込んだわけであり、彼の、このような全体主義への全面的傾倒ぶり一つとっても蒋介石政権を腐敗したファシスト/赤露匪賊とした私の形容(コラム#6600)は、言い得て妙である、と思いますね。(太田)
一方、中国大陸では・・・国民党政権は1947年1月に「中華民国憲法」を布告し、これにもとづいて国民大会代表2961名(定数3045)、立法院委員760名(同、733)、監察院委員180名(同、223)からなる三つの国会の、第一期の国会議員を選出した。翌年の3月に第一期の国民大会が召集され、蒋介石を総統に、李宗仁<(注41)(コラム#4992、6288)>を副総統に選出した。・・・
(注41)1890~1969年。広西陸軍小学堂卒。1929年と30年に蒋介石と戦っている。「1948年・・・、中華民国副総統選挙に出馬し、蒋介石が推す孫科を破って当選した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%AE%97%E4%BB%81
→蒋介石(中国国民党)政権には、それまでは実質的にも形式的にも憲法がなく、また議会もないままであった、ということです。まさに、蒋介石なる頭目が率いていたところの、腐敗したファシスト/赤露匪賊の面目躍如たるものがあります。(太田)
戦局はますます悪化し、蒋介石の下野を要求する声が高まるなかの1949年1月に、蒋介石は国民党総裁のまま、ひとまず総統を辞して李宗仁を「代総統」とした。
下野した蒋介石はその後台湾に渡り、1949年8月1日に・・・「中国国民党相殺弁公庁」を開設し、ここから国民党総裁として、華南一帯の国民党政権の「党」「政」「軍」「特」の諸機関を指揮し、命令を下した。この頃、・・・米国政府<は、>・・・8月5日に発表された『中国白書』<で>、国民党政権の失敗の原因は腐敗と無能にあり、「不信の政権」と断定し<た。>・・・そして10月1日、中国共産党が中華人民共和国の建国を宣言し<た。>・・・代総統の李宗仁は12月5日に米国に亡命し、国民党政権は7日に台湾移転を声明した。・・・
→支那でせっかくつくられた形式的憲法だったけれど、実質的憲法においては、相変わらず、中国国民党一党支配が貫徹していたことが分かります。(太田)
米国のトルーマン大統領は1950年1月5日に、「台湾海峡不介入」を声明した。つまり中国の共産党軍(中国軍)の台湾侵攻に、米国は関与しないことを意味する。この危機に際して蒋介石は3月に「総統復職」を声明し、陳誠を行政院長(首相に総統)に任命した。・・・
<その時、>国民党政権にとって「救いの神」ともいうべき朝鮮戦争が、6月25日に勃発した。トルーマン大統領は6月27日に、一転して「台湾海峡の中立化」を声明し、ただちに第7艦隊を台湾海峡の巡航に派遣、中国軍の台湾侵攻を阻止するとともに、国民党軍による中国攻撃も阻止した。・・・
1951年1月には、米国政府は国民党政権に対する軍事援助を復活し、翌2月10日に「米華共同防衛相互援助協定」に調印、台湾に軍事顧問団を派遣し、5月には執務が開始された。また1954年12月には「米華共同防衛条約」を締結した。」(163~167)
→米国が迷妄から完全に覚めるのが、実に、朝鮮戦争に至ってからであったことを忘れないようにしましょう。何とまあ、米国は「知恵遅れ」(コラム#6602)であることでしょうか。
(続く)
台湾史(その16)
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