太田述正コラム#6643(2013.12.19)
<個人主義の起源(その3)>(2014.4.5公開)
(3)英領北米植民地における個人土地所有の始まり
「その土地の上にピルグリム達が生活することとなったところの、ワンパノアグ(Wampanoag)族<(注5)>のような定住アニミズム(animist)諸文化においては、一片の地面が個々の家族によって使用され占拠されることがありえたし、しばしば、母親達から娘達へと次の世代に引き渡されることさえあったが、排他的(exclusive)所有権(ownership)は不可能だった。
(注5)「<現在の>マサチューセッツ州南東部からロードアイランド州にかけてを広く支配していた。・・・ドーム型の小屋に住処して狩猟、漁労、耕作をして暮らしていた・・・インディアン部族」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%8E%E3%82%A2%E3%82%B0
ワンパナオグの指導者のマサソイト(Massasoit)<(注6)>は、後でやってきた入植者達と友人になったが、その理由を説明するために、これらの諸文化共通の例え話を用いた。
(注6)「マサソイト酋長・・・インディアンにおける酋長とは、「調停者」(ピースメイカー)であり、白人が思い込んでいるような「指導者」や「首長」ではない・・・がピルグリムと結んだ条約にはプリマス植民地のために48.5km2の土地を譲渡することが含まれていた。インディアンにとって土地は誰のものでもなく、白人の土地所有の概念のように恒久的に占有するものではなかったから、そもそもマサソイトがこの「土地の譲渡」を理解していたかどうかは疑わしい。・・・その秋は各作物が大豊作であったため、ピルグリムは神の恵みとワンパノアグ族の助力に感謝し、収穫の祭を開いた。「すべてを共有する」というインディアンの文化に則って、マサソイトたちワンパノアグ族も90名が5頭の鹿を携えて入植地を訪れ、3日に渡る祝宴に加わった。これが現在の感謝祭の起源であるとされる。」(ウィキペディア上掲)
なお、マサソイト(1581~1661年)「を始めとするワンパノアグ族<は>ピルグリムファーザーズにトウモロコシを始めとする農作物の栽培方法を教え彼らを飢えから救った。「すべてを共有する」というインディアンの文化に従って、ワンパノアグ族は白人たちに惜しみなく食糧を与え、これを助けたのである。マサソイトは1621年3月22日にピルグリムの清教徒と平和条約にも署名し同盟を築いた。なお、この平和条約はマサソイトが死ぬまで守られ、両者は比較的平和に共存していた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B5%E3%82%BD%E3%82%A4%E3%83%88
→日本の縄文文化とインディアン文化との強い類似性が見出せますね。
インディアンが人間主義的であった点も含め・・。(太田)
彼は、「土地は我々の母であり、全ての、彼女の子供達、獣達、鳥達、魚達、そして人間達を養っている(nourish)。森、小川群、等その上に全てのものは全員に所属していて全員の使用に供されている。どうして一人の人間がそれが彼にだけ所属していると言えるのだ?」と語った。
人々は地面を使用できるが所有はできないとの同様の信条が、レビ記の中のエホバの戒律(commandment)であるところの、「土地は余<(=エホバ(太田))>のもの」であり、単なる「客達(strangers)にして<一時>滞在者達」たる人間達(mortals)はそれを所有することは不可能(unable)だ、に由来するユダヤ(Judaic)法の下で適用された。
イスラム<世界>も同様の見解を採用し、それをシャリアの中に組み入れた。
世俗的諸条件下で土地を所有することができる諸文化においても、土地は、地上における真正なる力を体現していた(represented)君主、皇帝、可汗(khan)といった人間の統治者に所属した。・・・
もともとのピルグリム達は失うものは何もなかったが、第二派の連中は安全と世俗的((worldly)達成物を擲って<渡来して>いた。
彼らには、諸危険と過酷な気候をものともしないことで、自分達がピューリタンとして信仰をする自由だけでなく、土地を個人的に所有することができる新しいイギリス社会において生きる自由をも勝ち取る、という差し迫ったニーズがあったのだ。
問題は、イギリスのコモンローで認められていた概念がアメリカの荒野の中で存在できるか、だった。
→個人所有権がコモンローで認められていたというのですから、リンクレイターは語るに落ちたといったところでしょうか。(太田)
彼らを安心させるために、ウィンスロップ(Winthrop)<(コラム#372、1767、2077、3656、4048、5288)>は、その半世紀後にジョン・ロックに通常帰せしめられることとなるところの、革命的な提案を提示した。
1629年に出版された小冊子の中で、彼は、地面の私的所有権は、法に依拠するものではなく、人間の労役(toil)によって作りだされる(created)、と主張した。
<具体的には、彼は、>ピューリタンの諸教義と、共有物を私用に供する者(encloser)達の実際主義的な(pragmatic)見解(outlook)と、を織り合わせることによって新しい説明を打ち立てた。
「神は、人間の子供達に地面に関する二重の権利を与えられた。それは、一つの自然権(natural right)と、一つの市民権(Civill Right)だ」とウィンスロップは宣言したのだ。
→ここの意味がいま一つよく分かりませんでした。
分かった方はご教示ください。(太田)
土地を私的財産として所有する、純粋にイギリスの市民的権利ないし法的権利は、人間達が共有地を私用に供してその土地を改善した時に出現した(came about)、と彼が主張した時に新しい地平を切り開いた<、と言えよう>。
自然権は使用と占拠(occupancy)によって確立した、というのだ。・・・
しかし、ピューリタン達はこの種の事柄に関しては良心によって導かれたことから、彼らは、自分達の究極的権威を法にではなく聖書に見出そうとした。
アメリカに向けて出港する前、<イギリスの>サザンプトン(Southampton)で待機していた際、彼らは、自分達が聞きたかったところの、私的財産に聖書的裏付け(backing)を与える、ジョン・コットン(John Cotton)師<(注7)(コラム#485、2077)>による説教を聞いた。
(注7)1585~1652年。ケンブリッジ大卒。マサチューセッツ湾植民地のピューリタンの牧師にして神学者。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Cotton_%28minister%29
コットンの説教は、創世記の中でアブラハムがパリサイ人達の間に入植するために場所を探す話の一節に立脚していた。
アブラハムは、ベールシバ(Beersheba)<(注8)>の乾いた土地に自分が堀った井戸を使用することが妨げられた時、パリサイ人の王のアビメレク(Abimelech)に、自分は井戸を堀った者なので水を引く権利がある、と訴え出た。
(注8)バビロン捕囚から戻ったイスラエルの民は、北はダン(Dan)から南はベールシバまでの地域に住んだとされている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Beersheba ←地図参照
http://en.wikipedia.org/wiki/Tel_Dan ←同上
しかし、コットンの説教の中では、アブラハムは、「井戸掘りにあたっての自分自身の精励(industry)と手入れ(culture)」に立脚して個人所有権の具体的(specific)主張(claim)をも行った<こととされている>のだ。
換言すれば、新アメリカ人達を、個人所有された土地財産(landed property)は、イギリス法ではなく地面を改善する自分達自身の諸努力に依存している、と安心させる聖書上の証拠があったというわけなのだ。」(C)
(続く)
個人主義の起源(その3)
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