太田述正コラム#6649(2013.12.22)
<個人主義の起源(その6)>(2014.4.8公開)
 「個人的かつ排他的な土地所有という観念は、他の何物よりも近代史に影響を与えた。
 リンクレイターの言葉によれば、それは、「歴史が書かれるようになってからの最も破壊的で創造的な文化的力であることがあきらかになった」のだ。
 彼は、後の方で、個人所有権はパラドックスであると言及している。
 一方では、それは伝統的諸文明を粉砕し、諸コミュニティからその土地を奪い(rob)、こうして、世界の中において自分達自身たる彼らの<アイデンティティの>感覚を奪った。
 しかし、その一方では、個人所有権は、中世から抜け出て来つつあった(emerged out of)、小作人(peasant)達を解放し、彼らを、ゆっくりと、しかし着実に、農奴制の終焉と奴隷制の廃止、及び代表政府と民主主義のために、全員にとっての自由と平等を求めたところの、諸革命へと導いたのだ。・・・
 <英領北米植民地人が言い出してから>1世紀の後、ジョン・ロックは、<植民地人達と>同じような流儀で、地面は全員の共有だが、「各人は彼個人の財産を持つ。<それは、>他の誰でもない、自分自身の権利なのだ。言うなれば、彼の身体の労働、そして彼の両手の働き<の産物>は、まさしく彼のものなのだ」と主張(argue)することになる。
 彼の労働は、かつては共有物と考えられていたところの土地に対する彼の請求権(claim)を与えることができるのだ。
 ロックの、個人財産に関する自然かつ体現された権利という議論(arguement)は、地面の所有権はリヴァイアサン(Leviathan)型国家によって強いられる市民法による創造物でなければならないとのホッブスの主張(claim)とまさに対位的(counterpointed)だ。
→ここでは、リンクレイターは、イギリスにおけるかつての市民権としての土地所有権が、近代において、英領北米植民地ないしイギリスで、自然権としての土地所有権に変わったと言っているようであり、この市民権及び自然権という概念に関して、彼の頭の中が整理されていないのではないでしょうか。
 いずれにせよ、リンクレイターのここでの指摘には首肯できません。
 「ロックにおいて、所有権は、自然法のもと、自己保存の権利ならびに自己保存実現のために自然の産物を利用する権利を共通の権利として与えられている人びとが、元来は人類の共有物である有用で稀少な自然の産物を、自己保存のために、より有効に利用していこうとするなかで、求められ、生じてくる。しかし、自然法は、各人に、単に自己保存を図るだけでなく、それと共に、可能なかぎりの他者保存をも図るよう命じている。それゆえ、所有権を行使しつつ自己保存を図ろうとする者には、他者保存への配慮が、とりわけ、他者のもつ自己保存の権利に対する侵害を回避することが要求されることとなる。つまり、所有権を獲得し、それを行使する者には、資源の稀少性を前提に、自己保存と他者保存を二つながら実現する義務が課せられているのであり、所有権の意義は、この二つを共に実現していくという点にこそ存する。ロックにおいて、労働とは、この義務を果たしていくことに他ならず、各人はこの労働の義務を遂行しつつ所有権を獲得し、行使していかねばならない。これこそが、われわれがロック所有権論から汲むべき最も重要な教訓である。」
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2008/625.html
との埼玉大学准教授の今村健一郎
http://www.s-read.saitama-u.ac.jp/researchers/pages/researcher/dZgfsVBx
によるロックの所有権論のまとめからも分かるように、私には、ロックは単にイギリスにおける伝統的な所有権概念を整理して提示しただけのように思われるからです。
 つまり、もともとイギリスの所有権概念には社会的側面と個人的側面があったところ、ホッブスはもっぱらその社会的側面を強調したのに対し、ロックは、両側面に目配りした所有権概念を、整理した形で叙述した、ということなのではないのでしょうか。(太田)
 しかしながら、個人所有権に関するこの二つの観念は、農業社会から産業社会にかけて切れ目なしに融合した。
→ここで、リンクレイター自身が、(少なくとも英領北米植民地や近代以降のイギリスにおいては、)所有権に社会的と個人的の両側面があるとの観念が確立していたことを認めてしまっています。(太田)
 地主-借地人-労働者(laborer)という構造は、株主-管理者(manager)-働き手(worker)という構造へと翻訳され、財産に関するコモンローの背後にある諸観念は、知的財産を(精神的(mental))労働の諸果実として容易に包含(encompass)した。・・・
→リンクレイターの言なのか書評子の理解なのか定かではありませんが、ここは、文脈的に意味不明です。(太田)
 リンクレイターによる、熱の入った、曲がりくねった、殆んどイライラさせられる、歴史的諸観念についての物語の中で、時々、我々は、どこかのテーブルの周りを通り抜けた(negotiated)会話を立ち聞きするために立ち止まって一息入れることが許される。
 その一つが、1647年に、パトニー(Putney)で、オリヴァー・クロムウェルと彼の義理の息子であるヘンリー・アイアトン(Henry Ireton)<(注12)>将軍が、水平派のウィリアム・レインズボロー(William Rainsborough)<(注13)>大佐と、新しい諸選挙において誰が投票権を与えられるべきかを巡って激しく議論をした会合<(注14)>での会話だ。
 (注12)1611~51年。「1646年、クロムウェルの娘・・・と結婚。1648年のイギリス国王チャールズ1世裁判の裁判官として死刑判決書に署名。翌1649年からはクロムウェルと共にアイルランド征服を始めた。1650年、クロムウェルから軍権を託されアイルランドの征服を続行したが、・・・アイルランドにて病没。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%B3
 (注13)William Rainsboroweとも綴られる。1612~73年。1630年代に英領北米植民地に移り住むが1642年に本国に戻る。
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Rainsborowe
 ただし、パトニーの会合(下掲)には彼の兄で、北米行きを含めて行動を共にしてきたところの、下院議員でかつ大佐のトーマス・レインズボロー(Thomas Rainsborough1610~48年)も出席しており、ウィリアムは当時少佐だったので、ここはウィリアムをトーマスと間違えたものと思われる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Rainsborough
http://en.wikipedia.org/wiki/Putney_Debates
 (注14)反国王軍たる議会軍の中からクロムウェルの鉄騎隊(Ironside)が中核となってできた新模範軍(New Model Army)の内部で、イギリスの新しい国体についての議論が、この新模範軍司令部の置かれた、ロンドン郊外のパトニーで、1647年に行われた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Putney_Debates 上掲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%A0%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AB
 クロムウェルの側は、土地を所有しているか借りている者達だけだと言い、それに対して、水平派は、疲れを知らないがごとくに、政府の権力は、財産に関係なく、全ての人民に由来(derive from)しなければならないという観念を主張した。
 そして、我々は、しばしば、トーマス・ジェファーソンの傍らに戻り、そこで休息する。
 もし誰かをこの物語の英雄と呼ぶとすれば、それは、彼と、彼が想像した独立した合衆国だ。
 独立宣言の草案を編集する任務を与えられた時、ジェファーソンがやったのは、土地の所有権ではなく、生誕のみによって与えられた普遍的自由という概念へと米国が生まれたことを確認することだった。」(A)
→リンクレイターは、当時のできたばかりの米国の方を当時のイギリス(英国)よりも高く評価していますが、選挙権を奴隷に与えなかった米国と、財産非保有者に与えていなかった英国と、どちらがマシであったかと言えば、問題なく、後者でしょう。
 そもそも、米国では、奴隷には、選挙権のみならず、人権一切が与えられていなかったのですからね。(太田)
(続く)