太田述正コラム#6651(2013.12.23)
<『チャイナ・ナイン』を読む(その1)>(2014.4.9公開)
1 始めに
リンクレイターのできの悪い本の解説や書評を読まされ、しかも、私がイギリスや米国の土地制度に詳しくないこともあって、いささか消耗したので、「個人主義の起源」の連載・・これから私のリンックレイター批判を行う予定・・を一旦休止し、表記シリーズを挿入することにしました。
遠藤誉『チャイナ・ナイン』は、『史上最大のボロ儲け』(コラム#6571、6577)を提供してくれた読者のMHさんが、同じく提供してくれた本(コラム#6546)です。
なお、著者の遠藤誉(1941年~)は、「日本の物理学者、社会学者、作家。女性。中国長春出身。日中戦争終結後も日本の独立回復まで中国で教育を受けた。日中社会の社会学的考察に基づいた社会評論や自伝小説などを発表。筑波大学名誉教授。元帝京大学グループ顧問(国際交流担当)。留学生教育学会名誉会長。理学博士。北京大学アジアアフリカ研究所特約研究員。中国国務院西部開発弁公室人材開発法規組人材開発顧問。内閣府総合科学技術会議専門委員。中国社会科学院社会学研究所研究員(教授)。上海交通大学客員教授。など。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%97%A4%E8%AA%89
という人物です。
最近の遠藤の言説が、ネット上に映像で出回っているので、関心ある方はご覧ください。
http://video.search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%81%A0%E8%97%A4%E8%AA%89&tid=69af5983d7fa71145c54ea667affe289&ei=UTF-8&rkf=2
私は、上掲だけを視聴しました。
2 後書き
著者が自らを語っている後書きから読み進めることにしましょう。
「1941年1月3日、私は現在の中国吉林省長春市(当時の呼称は「満州国新京市」)で生まれた。父が麻薬中毒患者を治癒する薬を発明し、中国にいる多くのアヘン中毒患者を治癒するために中国に渡っていたからだ。
父は信仰心の篤い人間でもあった。弱い者、苦しんでいる者の側に立って、世のお役に立つ生き方をしたいという、素朴な善意に基づいて生きていた。したがって「新京市」で、製薬工場である「新京製薬」を設立しても、中国人従業員を第一に置き、2番目に朝鮮人を、そして最後に日本人を位置づけるということを大原則として譲らなかった。」(349)
→遠藤の父親が具体的に中国人や朝鮮人にどのように接していたかは紹介を省略しますが、人間主義を体現しているところの、日本人の理念型的人物ここにあり、ですね。(太田)
「1945年8月15日、日本が終戦を迎えると、日本人の家は暴徒に襲われたが、私の家は逆に中国人や朝鮮人がスクラムを組んで守ってくれたために何一つ被害には遭わなかった。」(350)
→人間主義の効用・・情けは人の為ならず・・を如実に物語る挿話です。(太田)
「<内戦下の1948年の長春攻囲戦(コラム#3560、6429)において、>苦しむ民のために闘っているはずの中国共産党軍が、なぜ<長春市内の>一般庶民を餓死させるようなことをしたのか。・・・
あのときの餓死者の数は、中国政府の公的見解では12万人とされ・・・ている。国民党側の推計によれば65万人という記録があるが、経験者たちの見方は、少なくとも30万人はいただろうというのが、大方の感覚だ。・・・
その原因はソ連のスターリンにあった。
スターリン<が>・・・毛沢東に武器援助をしなかったからだ。共産主義圏に二人のドンは要らない・・・というのがスターリンの考えだ。だから武器を持っていない毛沢東は、都市を包囲することによって「点」を死守している国民党を孤立させ、消耗させる作戦に出<るほかなかったのだ。>」(355、369)
→遠藤が1952年に日本に引き揚げる時点では、まだスターリン(1878~1953年)・・毛沢東のボス・・は存命であり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3
「スターリンが武器援助をし<てくれ>なかった」などというアブナイ話を中共関係者が遠藤に吹き込んだはずはないので、彼女は、一体、どこから、こんなヨタ話を仕入れたのでしょうね。
蒋介石軍は降伏した日本軍から大量の武器を没収していた上、米国は、蒋介石政府を見離していたとはいえ、毛沢東軍に武器援助をしたはずもない以上、毛沢東軍がスターリンから武器援助を受けずして蒋介石軍との内戦に勝利を収められたわけがありません。
そもそも、長春攻囲戦だけをとっても、武器を含め圧倒的優位に立っていない側が攻囲戦を行い、かつその戦いに勝利できたはずがないのです。(太田)
「蒋介石、国民党は、・・・1945年7月26日にアメリカ、イギリスおよび中華民国によって出されたポツダム宣言の領土に関する骨子になっている・・・<1943年11月22日の
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%AD%E5%AE%A3%E8%A8%80 >
カイロ宣言に根拠のすべてを求め、国際社会に領土主権を見せるために、わざわざ「満州国」の首府であった「新京」すなわち長春に根拠地を置いて、一点死守を図ったのである。もし日本が「満州国」を建てておらず、その首府を「新京」に置いていなかったとすれば、長春の食糧封鎖は存在しなかっただろう。」(356)
→満州は、日本の実質的統治下において経済的に大発展を遂げていたところ、その政経中枢たる都市を蒋介石が死守しようとしたのは当たり前ではありませんか。
カイロ宣言やポツダム宣言を持ち出すまでもない話です。(太田)
「<そんな攻囲下の長春を遠藤自身を含む彼女の一家が脱出できたのは、毛沢東から>「共産党にとって有用な物だけ<は>救出<してよい>」という指令が・・・下った<からだ。>・・・<彼女達が脱出すると、>すぐに、野菜の入ったお粥が振る舞われた。
解放区で飢え死にする者は一人もいないようにしろ、というのが、毛沢東の支持であったと後に知る。それは毛沢東の「誰が民を食わせるかを民に知らせるのだ。そうすれば民は自分たちを食わせてくれる側につく」という、大戦略に基づく指令だった。すなわち、民は毛沢東率いる共産党を選ぶか、それとも蒋介石率いる国民党を選ぶか、という意味だ。
この論理は現在の中国においてもなお、変わっていない。誰が中国を経済成長させ、誰が13億の民にご飯を食べさせているのか。それは中国共産党だ、という論理は・・・変っていない。」(363)
→それにしては、毛沢東、1958~60年の大躍進
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%BA%8D%E9%80%B2%E6%94%BF%E7%AD%96
でよくもまあ天文学的な中共人民を餓死させてくれたものだ、と言いたくなりますが、内戦下で共産党支配地域(解放区)で食糧が不足しなかったとすれば、スターリンが食糧援助も行っていた、ということではないでしょうか。
その食糧の相当部分は、シベリアに抑留された日本兵が作らされていた、いや、少なくとも、抑留日本兵が、シベリアで毛沢東への武器や食糧援助のためのインフラ作りをさせられていた、となれば話の辻褄が合ってきます。(太田)
(続く)
『チャイナ・ナイン』を読む(その1)
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