太田述正コラム#6655(2013.12.25)
<『チャイナ・ナイン』を読む(その3)>(2014.4.11公開)
「日中友好平和条約が1978年10月に調印され、その2カ月後に改革開放が始まると、1980年に手塚治虫のアニメ『鉄腕アトム』が中国大陸に上陸した。1966年からの文化大革命で荒廃していた中国の民の心に、アトムはまさに愛と勇気と正義に燃える夢のような世界を提示してくれた憧れの象徴となった。大人も子供もみな、無条件にめくるめく世界に魅せられ、アトムを愛し、そして「日本は決して戦争が大好きな民族ではないじゃないか」と、戦後復興した日本を肯定した。・・・
そこで重要な役割を果たしたのが「海賊版」だ。・・・
1989年、中国で若者たちが政府に対して「民主化」の旗を振った天安門事件・・・の裏には、欧米先進国、特にアメリカからなだれ込んできたヒッピー的、反体制的なカウンター・カルチャーの影響があった。
こうしてストレートな政治思想の蔓延を中国政府は恐れ、以降、国内での政治活動の規制を強めていく一方、同時期に日本から流れ込んできた動漫に対しては、「子供向けの人畜無害なエンタテインメント」とみなしていた。青少年たちが政治に強い関心を抱き、民主主義を語るようになるくらいならば、「たかが動漫」にうつつを抜かしてもらっていた方が都合が良い、とその普及を野放しにしていたのである。・・・
ここに大きな誤算があった。社会主義国家中国にとって、アメリカ由来のカウンターカルチャーよりも、日本由来の「たかが動漫」の方がはるかに強烈な「民主主義の鐘を鳴らす革命の道具」だったのである。・・・
日本動漫・・・には若者が生きていくための、多くのメッセージが込められていた。人生の夢、人類への愛、学校キャンパス内での恋愛と苦悩、友情の大切さ、希望と絶望、あるいは素敵なファッションとときめく心、性の開放、消費の喜び…・あらゆる表現、あらゆる発想が・・・躍動していたのである。・・・
生まれたときから毎日毎日、日本動漫の消費を通し、日本の精神文化に知らず知らずに浸かってきた中国動漫新人類たちは、日本動漫を「青春の教科書」として読んでいるうちに、実は「民主主義の教科書」として読み込んでいることに気づかず、結果的に自らが「民主化の鐘を鳴らす」心の準備をしていたのである。・・・
<これでは、>どんなに激しく日本の戦争犯罪を糾弾し、中国の勝利を叫ぶ「愛国主義教育」を施そうとも、物心ついたときから日常レベルで、しかも自分の意思で吸収していった文化の痕跡を消すことはできない。・・・
今の中国の若者たちは、かくして「日本動漫大好き」という感情と、抗日戦争に関する教えを中心とする愛国主義教育で醸成された「反日的」感情とを同時に持つに至った。まさに中国の動漫新人類たちは、心の中に日本に対する「ダブルスタンダード」の感情を有しているわけである。」(187~191)
→このくだりは、極めて示唆的でした。
それでも、クレームがあります。
この本全体のトーンや、遠藤の映像等からは、彼女は媚中派では全くなく、もとより媚米派でもないことが窺えるのですが、それだけに、青春時代までを中共で過ごした上にその後も中共と密接な関わり合いを続けてきたという半生に加えて、戦後日本の風潮の影響もあったということなのか、彼女が、中共の若者達の親日を「平和」や「民主主義」という左翼的ないし吉田ドクトリン的な言葉で説明していることは残念です。
当然ながら、私であれば、中共の若者達の親日とは、人間主義の日本に対する憧憬である、といった記述を行うところです。(太田)
「<さて、上出の>「文化体制改革」・・・<の>詳細なタイトルは「文化体制改革を深化させ、社会主義文化の大発展大繁栄を推進させよ」というものである。・・・全文は・・・日本語に置き換えると3万字以上になるだろう。・・・スローガン的な文言で、具体的に内をしようというのか非常に見えにくい。・・・
2012年1月6日、今度は国家主席・胡錦濤が中国共産党政治理論雑誌『求是』に・・・「文化体制改革」に関して、以下のようなメッセージを添えている。
国際敵対勢力が我が国を取り囲み、必死で西側化し分裂化させようという戦略を推進しており、思想文化の領域こそが西側が長期にわたって浸透させようとしている重要な領域であることを、われわれははっきりと認識しなければならない。
この意識形態の領域における闘争の深刻さと複雑さを、われわれは深く認識しなければならない。そのために警告を鳴らし続け、警戒を緩めず、防御と対応に強力な措置を施さなければならない。
<胡錦濤は、>このように警告し、この闘いに勝つには、「人を中心に置いて、人民の日々高まる精神文化のニーズを満たしていく以外にない」と強調した。
雑誌『求是』は、2012年は・・・「文化体制改革」を中心任務とした1年になるであろうと結んでいる。経済でもなければ、はたまた政治でもない。今中国を内部崩壊させるとすれば、それは「精神文化」であることを、中国は認識しているのである。」(194、207~208)
→遠藤は、「私にとっては、中華人民共和国を誕生させるまでのあの革命は、まだ終わっていない。・・・毛沢東が革命戦争を起こすに当たって約束した「苦しんでいる一般人民のための真の民主と自由」が実現したときに初めて、私にとってあの革命は完結するのである。その日まで私は死ぬわけにいかない。」(369)と述べているところ、(彼女のこの気持ちは私も基本的に共有しているけれど、)彼女は、中共における共産党支配を瓦解させない限り、革命は成就しない、と考えているフシがあります。
だからなのでしょう、彼女は、「文化体制改革」に対して、中国共産党が、党による中共支配を瓦解させないための縫策的な改革として、否定的な評価を下しているように見うけられます。
しかし、胡錦濤・習近平らが意図しているのは、彼女が考えているよりもはるかに良心的かつ抜本的な改革である可能性が高いのではないか、と私自身は考えます。
つまり、彼らは、「文化体制改革」を、「国際敵対勢力」、すなわち「西側」の思想文化に対する戦いと定義しているわけですが、私は、遠藤とは異なり、この「西側」に日本は入っていないどころか、彼らは、既に中共の若者達に浸透しているところの、日本の思想文化を高く評価し、支那人を人間主義化、すなわち、日本人化することによって、「西側」と戦い、勝利しようとしているのではないか、と考えるのです。
そもそも、彼らは、支那の近現代史の悲劇は、キリスト教そのもの、及びキリスト教に由来するところの、(スターリン主義を含む、)民主主義独裁の諸イデオロギーや市場原理主義のイデオロギー、及び、これとは対蹠的なイギリス由来の個人主義、すなわち、欧州及びアングロサクソンという意味での「西側」の思想文化が、支那人の生来の阿Q性と結びつくことで引き起こしたものである、という認識を抱くに至ったからこそ、このような考えに至ったのではないかとさえ、私は思い始めています。
(本来、改めて人民網のバックナンバーにあたる必要があるけれど、)このように考えて、初めて、「文化体制改革」が開始された頃から、私の言う、日本ヨイショが人民網で展開されるようになったことの説明がつくのではないでしょうか。
このように見てくると、日本人や日本の制度に対する、関心と憧憬を表明している人民網の一連の記事は、日本ヨイショが目的というよりは、中共当局の中共人民向けのメッセージである、いうことになりそうです。(太田)
(続く)
『チャイナ・ナイン』を読む(その3)
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