太田述正コラム#6675(2014.1.4)
<デール・カーネギーの生涯と主張(その1)>(2014.4.21公開)
1 始めに
デール・カーネギー(Dale Carnegie。1888~1955年)の伝記である、スティーヴン・ワッツ(Steven Watts)の『自助の救世主(Self-Help Messiah)』が出たので、その書評をもとに、カーネギーの生涯と主張を振り返ってみたいと思います。
カーネギーは、米国内外で超ベストセラーであり続けている、『人を動かす(How to Win Friends and Influence People)』(1936年)の著者として余りにも有名です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%82%AE%E3%83%BC
実は、私は、『人を動かす』を含め、カーネギーの本は読んだことがありませんし、1974~76年にかけて在籍したスタンフォード・ビジネス・スクールでも、授業等の中でカーネギーに言及されることは全くありませんでした。
しかし、カーネギーを通じて米国についての理解が更に深まるのではないか、という気持ちもあり、この伝記を取り上げることにしたものです。
A:http://www.csmonitor.com/layout/set/print/Books/Book-Reviews/2013/1227/Self-Help-Messiah
(12月28日アクセス。以下同じ)
B:http://www.washingtonpost.com/opinions/self-help-messiah-dale-carnegie-and-success-in-modern-america-by-steven-watts/2013/12/20/d601c7a8-5b5e-11e3-a49b-90a0e156254b_story.html
C:http://www.npr.org/2013/11/07/243466374/self-help-messiah-dale-carnegie-gets-a-second-life-in-print
(1月1日アクセス。以下同じ)
D:http://www.economist.com/news/books-and-arts/21588832-folksy-tips-father-self-help-america-how-succeed
E:http://www.bookforum.com/inprint/020_04/12472
なお、ワッツは、ミズーリ大学士(1975年)、ヴァージニア大修士、ミズーリ大博士であるところの、ミズーリ大学歴史学教授であり、ウォルト・ディズニー、ヘンリー・フォード、及びヒュー・ヘフナー(プレイボーイ誌)、それぞれの伝記をこれまで上梓している人物です。
http://history.missouri.edu/people/watts.html
2 デール・カーネギーの生涯と主張
(1)時代背景
「カーネギーは1888年に生まれたが、彼の人生の初期に米国が経験したのは、ワッツの言葉によれば、「巨大な工業化、大量の移民、そしてフロンティアの消滅、だけでなく、現代消費経済の速やかな成長だった。
経済的かつ人口的な変化に付随して、厳格なヴィクトリア朝的諸道徳律(Victorian moral codes)が後退し、「人格(character)」は「個性(personality)」よりも重要ではないとみなされるようになった。」(A)
「<カーネギーの主張>は、大量消費経済の出現と明確に調和していた。
20世紀初頭には、「個性の発展、個人的幸福、人間関係、そして自己実現、に夢中になる新しいエートス(ethos)が出現した」とワッツは記し、それを、「宗教的救済や公然たる経済的利潤よりも気持ちの上での幸福感(emotional well-being)により関心を持つ個人主義の一形態」と描写する。」(E)
(2)生涯
ア 大学まで
「かくも成功裏に心理学を自己改善と意思決定に応用したところの人物は、1888年にミズーリ州の田舎の農家に生まれた。
(彼の苗字は、もともとは・・・カーネイギー(Carnagey)だったが、大人になったデールは、鉄鋼王・・・のアンドルー(Andrew)が用いていた名前と綴りを合致させた。)
諸写真では、カーネギーは、大きな耳を除き、全く持って並の風貌だった。
この、これと言った特徴のない顔つきは、彼の人生の使命となったところのもの・・普通の男や女に自分達自身を平凡さから身をもたげさせるための諸道具を与える・・にふさわしかった。」(B)
「ミズーリ州ワレンスバーグ(Warrensburg)の州立尋常学校(State Normal School)の学生達の大部分は、構内で生活するためのささやかな賃料を払ったけれど、カーネギーは、<(カネがなかったので、)>近傍に所在した両親の農場で生活しなければならなかった。
彼は、毎日、馬に乗って町に行き、授業に出ている間、馬を人に預けた。
彼は馬糞のような匂いがし、衣類はつぎはぎだらけでサイズが合っていなかった。」(E)
「10代の時、カーネギーは、教員を養成するところの、授業料がタダのミズーリ州立尋常学校に入学したが、そこで、彼は、ボロボロの衣類とジョッキのような耳で恥ずかしい思いをしたが、やがて、ディベート会で頭角を現した。」(C)
「彼の立身は<入学した>単科大学で始まった。・・・
彼はつぎはぎだらけの衣服で構内に到着したが、それが彼の貧乏な両親が彼のためにできた最善のことだったのだ。
この恥ずかしい出発を克服したいと願って、彼は、構内で一角の男になることができるかもしれない一つの資産を持っていることに気づいた。
それは、雄弁術の才能(flair)であり、それが最初に顕現したのは宗教的な諸集会の時だった。
彼は、諸コンペに参加し、名前を売ったおかげで、2年生の時に学年の副会長に選出されるのだ。」(B)
(続く)
デール・カーネギーの生涯と主張(その1)
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