太田述正コラム#0228(2004.1.13)
<孫文(その1)>
(私のホームページの掲示板でもご報告させていただいたように、私のホームページへの昨年12月から本年1月にかけての一ヶ月間(11日??10日)の訪問者数は7,201名と、その前の一ヶ月間に比べて更に1,500名近く増え、史上最高を再び更新しました。これで、2001年4月のホームページ開設以来の累計訪問者数は77,211人となりました。なお、メーリングリスト登録者数は、合わせて380名になりました。これからはマジにコラム上梓頻度が落ちますが、引き続き本コラムをご愛顧のほどを。)
これまで宋美齢、毛沢東、周恩来らをこのコラムで取り上げてきましたが、そろそろ中華民国及び中華人民共和国の共通の「国父」孫文(孫逸仙(Sun Yat-sen。1866??1925年)の出番でしょう。(年代は、基本的にhttp://www.c20.jp/1924/01gass1.html (1月12日アクセス)による。)
1 「国父」孫文
孫文と近代トルコの「国父」のケマル・アタチュルク(1881??1938年)とは好一対の存在です。
両者とも、領域保全のためには軍事力の強化が必要で、そのためには欧州化(近代化)が必要だとし、欧州化はあくまでも領域保全という目的達成のための手段の手段に過ぎないのであって、それ自体が目的ではない、と考えていた点で共通しています。
孫文については、彼が1924年に神戸で行った、いわゆる大アジア主義演説の中の、「東方の文化は王道であり、西方の文化は覇道であります。王道は仁義道徳を主張するものであり、覇道は功利強権を主張するものであります。仁義道徳は正義合理によって人を感化するものであり、功利強権は洋銃大砲を以て人を圧追するものであります。・・斯くの如き好個の基礎を持って居る我々が、なお欧州の科学を学ぼうとする所以は工業を発達させ、武器を改良しようと欲するが為に外なりません。・・我々はそれを学んで自衛を講じようとするのであります。」(http://www.yorozubp.com/asiaism/asiasunwen.htm。1月12日アクセス)というくだりが明瞭にそのことを物語っています。(ケマル・アタチュルクについては、コラム#164参照。)
このような考えの持ち主であった孫文とアタチュルクは、どちらも欧州(欧米)、就中アングロサクソンの価値観の核心である自由主義(人権)には全く関心を示しませんでした。
孫文とアタチュルクが、それぞれその目的としたところの領域保全の範囲を画する「民族」を新たに作り出さなければならなかった、という点でも二人は共通しています。(支那の「民族」問題については、別途論じたい。)
イデオロギーの点では、アタチュルクは世俗主義の徹底を図り、死後このアタチュルク流世俗主義がケマリズムというイデオロギーに転化したのに対し、孫文は生前からイデオロギーの構築に努めました。
孫文らによって東京で中国革命同盟会が結成された1905年、孫文は、民族主義、民権主義、民生主義からなる三民主義なるイデオロギーを打ち出します。
民族主義とは満州族支配からの解放を指し、民生主義とは民衆の生存に必要な衣食住の確保を指し、民権主義は民主主義を指していました。
民権主義にあっては欧米の民主主義の三権分立ではなく、五権分立・・行政院、立法院、司法院、考試院、監察院(=executive, legislative, judicial, examination(civil service), censorate yuans)の分立・・が提唱されました(http://iseken.hp.infoseek.co.jp/sanmin.html。1月13日アクセス)。考試院は漢以来の官僚制ないしは隋以来の科挙制度の復活であり、監察院は、明の太祖、洪武帝(Emperor Hong Wu。1328??1398年)が初めて設けた同名の機関の復活でした(http://www.wsu.edu:8080/~dee/MODCHINA/SUN.HTM。1月12日アクセス)。
孫文が、このような欧米と支那の制度を寄せ集めた、三権分立制ならぬ五権分立制を提唱したところにも、彼の欧米理解の浅薄さが現れています。
第一次世界大戦中にロシアでボルシェビキ革命が起こると、コミンテルンのエージェント達が支那に派遣され、孫文に民主主義独裁の考え方を吹き込み、1919年に孫文らは中国国民党を結成します。そして孫文は、1921年に創設されたばかりであった中国共産党の支持母体である農民や工場労働者を中国国民党に取り込むねらいで、1923年、共産党員が国民党員になることを認め、その見返りとして、国民党はソ連に軍事顧問、武器弾薬等の支援を受けることとなりました(http://www.time.com/time/asia/asia/magazine/1999/990823/sun_yat_sen1.html。1月12日アクセス)。
これが上海での孫文・ヨッフェ共同宣言(ヨッフェはソ連の極東代表)であり、翌1924年には第一次国共合作が成立します。
(この結果できた単一民主主義独裁前衛政党が、1927年に、朱徳、賀龍らが蒋介石による北伐の途中で起こした南昌蜂起によって、ファシズム政党である中国国民党とマルクス・レーニン主義政党である中国共産党に分かれる、と考えるといいのです。)
この頃、孫文の三民主義も民主主義独裁的な内容へと大きく変化します。
民族主義は、反帝国主義にもとづく民族の解放・独立や世界の被圧迫民族との連帯を意味するものとなり、民生主義は土地改革と重要産業の国有化を意味するものとなりました(http://www.tabiken.com/history/doc/H/H196C100.HTM。1月13日アクセス)。
また民権主義は、(軍を掌握した上意下達の前衛党による)独裁的支配の段階、次に(前衛党による、地方自治のみを認めた)政治指導の段階、そして最終的に完全な民主制の段階へ、という三段階革命論(前掲ワシントン州立(WS)大学のサイト及びTime誌のサイト)という、アジア初の民主主義独裁の理論へと変貌を遂げたのです。
国民党が1928年に支那の政権をとると、孫文の五権分立制が採用され、また、孫文の民主主義独裁の理論も蒋介石によって自分の独裁的統治を正当化する理論として援用されることになり(前掲WS大学のサイト)、他方で孫文の民主主義独裁の理論は、共産党によっても毛沢東の新民主主義論(前衛党の指導の下で広範な統一戦線によって推進され,帝国主義,封建主義の支配を覆すことを目的とする新民主主義革命と、その後の社会主義革命の二段階論)に形を変えて受け継がれることになります(前掲tabikenサイト及びhttp://www.tabiken.com/history/doc/J/J248C200.HTM(1月13日アクセス))。
(続く)