太田述正コラム#6683(2014.1.8)
<またもや人間主義について(その3)>(2014.4.25公開)
3 ジョシュア・グリーンの主張
「進化は・・・我々を部族的(tribal)にした。
しかし、今日の混雑した我々の惑星の上における最大の問題は、「我々対彼ら」の問題であり、部族主義(tribalism)はそれを一層悪化させる。
「我々の道徳的脳は、集団内で協力するために進化した」けれど、脳は「集団間の協力のために進化しなかった」、と彼は言うのだ。
これが、グリーンが呼ぶところの、「共有感覚的道徳性の悲劇(Tragedy of Common-sense Morality)<(注3)>」だ。
(注3)原文は’Tragedy of Commonsense Morality’だが、他の箇所では(下出のように)’Tragedy of Common-sense Morality’となっているので、ハイフン入りの方に統一した。そうしないと、その訳語は、「常識的道徳性の悲劇」となってしまい、グリーンの言いたいことを的確に表現できないからだ。
すなわち、我々の本能が何が正しいか教えてくれるものは、もし我々が異なった価値を持つ人々と平和裏に生きようと欲するのなら、しばしば極めて間違っているのだ。
良いニュースは、「部族主義のために<脳神経が>配線されていることは、部族主義のための配線が変えられない(hardwired)ということでは必ずしもないこと」だ。
この違いは枢要なのであって、いかに脳が我々が行うことの全てを決めているか、と記す人々は、このことをしばしば忘れてしまっている。
「<人間の>道徳性は、(生物学的には)それをやるべく進化していないことだって可能にする」、とグリーンは言う。
どうして脳はそんなことを行えるのだろうか。
我々の直観的(gut)諸対応を支える本能的「自動モード」から計算された合理的な「マニュアルモード」に切り替えることによってだ。
これは、グリーンによると、「マニュアルモードの本来的(native)哲学」であるところの、功利主義(utilitarianism)を抱懐することを意味する。
功利主義は、「幸福が大事なのであり、誰もにとって、幸福は同じように計算(count)される」という観念を採用しており、「幸福の公平な(impartially)最大化」という三つの言葉からなる単純な金言を生み出(generate)している。・・・
功利主義によって求められる絶対的に公平な類の観点(perspective)・・自分自身の子供、配偶者、または友人達に係る諸利害はその他の人々に係る諸利害を超えるものではないとする・・「から、要は、<「我々対彼ら」の問題を回避ないし解決することと、>我々の脳がそのために設計されているところの、生活とは両立しない」ことを、我々は十分自覚するのだ。
<以上を総括すれば、>グリーンは、<共有感覚的道徳性の悲劇>を人類の<本能に由来する>欠陥であると受け止めているのであって、彼がより好むところの<功利主義的>道徳理論の欠陥であるとは受け止めていない、ということになる。」(A)
「哲学、心理学、そして神経科学の素養を踏まえつつ、・・・グリーンは、これらの分野における自分の初期の諸研究から得られた諸洞察を用いて、<功利主義的>道徳性が重要である第一の理由は、それが個人のためのガイドを提供するからではない、と主張する。
そうではなく、<功利主義的>道徳性は、諸コミュニティの中で諸個人がいかに成功裏に社会生活を生きるかについての、かつまた、いかに諸コミュニティが相互に効果的にあい交わる(interact)かについての、道路地図(roadmap)として重要なのである、と彼は説明する。・・・
グリーンは、近代的実存の二つの中心的問題はどちらも本質的に社会的であると示唆し、このそれぞれに対応する脳の能力について説明する。
第一は、良く知られている共有地(commons)の悲劇に関係するものであり、それを複数の個人達(家畜飼い達)が分け合う(shareする)場合に、それぞれが集団に対する配慮なしに自分の自利に基づいて行動する結果、共通の資源(牧草地)が最終的に枯渇してしまう、という問題だ。
グリーンは、この問題は悲劇とは言えないと主張する。
というのは、人間の思考の直観モード・・グリーンが我々が「照準し射撃する(point-and-shoot)背景(setting)」として言及するところのもの・・は、人間を協力へとそっと突っつくところの、罪の意識、感謝、そして共感(empathy)といった感情的諸反応(responses)を生み出すからだ。
すなわち、我々の直観レベルの諸決定は、個人よりも集団を好む傾向があるのだ。
第二の問題は、克服するのがはるかに困難であって、皮肉にも、共有地の悲劇を我々が解決する方法から生じる。
このジレンマは、グリーンが使う言葉によれば、異なった諸コミュニティが相互調整する最も公正な方法を巡って衝突するという共有感覚道徳性(common-sense morality)の悲劇なのだ。
これは大きな問題なのであって、我々が照準し射撃する背景は、我々を、諸集団へとまさに強力に縛り付けるがゆえに、我々を窮地(mess)に追い込むのだ。
<すなわち、>その良くない傾向(downside)は、我々のサークル内の人々に対して表明される善意と忠誠がそのサークル外の人々に対する配慮を減じさせることなのだ。
このように集団間の紛争を特徴づける(characterize)ことによって、どうして、民主党と共和党の競争関係が、ヤンキースとレッドソックスのそれと同様に手におえないものであるかが説明される。
一方の側が共有する諸価値を好むことは、生来的(inherently)に、もう一方の側が共有する諸価値を軽蔑することを意味するからだ、と。・・・
グリーンは、米国のリベラリズムを、我々の部族的諸本能を克服するために深いプラグマティズムを活用するイデオロギーである、として擁護する。
グリーンは、諸感情に、自利的諸関心を集団利害的諸関心へと変換する役割を帰するけれども、究極的には、彼は理性のチャンピオンなのだ。
費用便益諸計算を実施していかに幸福を極大化するかを決定することを可能にするものは理性である、とグリーンは主張する。
こうして、<この本は、>ベンサムとミルが使うことが決してできなかったところの、機能的神経映像化(functional neuroimaging)、潜在的連合テスト(implicit association test)<(注4)>、オキシトシン鼻スプレー、といったいくつもの道具を使い、ベンサム=ミルの21世紀のための合成物(mash-up)を提供している。」C)
(注4)「潜在連合テスト(IAT)は、様々な社会的対象に対する潜在的態度を測定することができる手法である。潜在的態度とは、人々が意識することができないが所有している態度であり、人々の日常生活における様々な行動に影響を与えると考えられている。IATは、概念間の潜在的な連合を測定する手法であり、概念は常に対になって用いられる。たとえば、人種差別の研究において、黒人に対する態度を測定する場合であれば、黒人と対になる概念として白人を用いることができる。また、連合の対象となる概念も、良いと悪い、など対で用いられる。このように概念を対にして用いることにより、相対的な態度を測定するのがIATの大きな特徴である。」
http://www.cret.or.jp/files/29801c5f8e57f38971ca33db8ebfde0a.pdf#search=%27implicit+association+test%27
(続く)
またもや人間主義について(その3)
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