太田述正コラム#6687(2014.1.10)
<またもや人間主義について(その5)>(2014.4.27公開)
グリーンは、我々がまだ石器時代に生きているのであれば、<共有感覚道徳性は>それほど大きな問題にはならないと思っているようだ。
当時であれば、人口は疎らであり、それは、諸集団がお互いに出っくわすことがないことを意味したし、いずれにせよ、隣接する村もあなた方と同じ言語、文化を共有しているかもしれないし、その村にはあなた方と親戚の者も若干はいることさえあるかもしれないから、と。
しかし、現代世界においては、諸集団はぶち当たり(smush)あうし、なお話がややこしいのは、それぞれが異なった価値を持っていることだ、と。
グリーンは次のように記す。
多くのイスラム教徒は、イスラム教徒であろうとなかろうと、預言者ムハンマドの肖像を作ってはならない、と信じている。
<また、>幾ばくかのユダヤ人は、ユダヤ人は「選民」であって、ユダヤ人はイスラエルの地に対する神聖なる権利を持っている、と信じている。
<更に、>多くの米国のキリスト教徒達は、十戒<(注6)(コラム#3028、3652、3654、5290、6411、6468、6479、6493)>が公共建築物群に展示されるべきだし、全米国人は「神の下の一つの国民(one nation under God)」<という文言>に忠誠を誓わなければならない<(注7)>、と信じている。
(注6)じっかい。「旧約聖書の出エジプト記20章3節から17節、申命記5章7節から21節に書かれてある。エジプト出発の後にモーセがシナイ山にて、神より授かったと記されている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%81%AE%E5%8D%81%E6%88%92
(注7)「<米>国旗への忠誠の誓い(・・・Pledge of Allegiance)とは、<米>国への忠誠心の宣誓である。忠誠の誓いはしばしば<米>国の公式行事で暗誦される。<米>議会の会期もまた、忠誠の誓いの暗誦で開始される。現在の「忠誠の誓い」は以下の通りである。
“I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.(私は<米>国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備えた、神の下の分割すべからざる一国家である共和国に、忠誠を誓います) ”
国旗規則により、忠誠の誓いは合衆国国旗に顔を向け、右手を左胸の上に置き、起立して暗誦しなければならないと定められている。私服の場合は、宗教的な物を除くいかなる帽子も取り去り、左胸の上に置かれた右手で左肩の上に掲げなければならない。軍服を着ている場合は無言のまま国旗に顔を向け、軍隊式の敬礼を行う。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%A0%E8%AA%A0%E3%81%AE%E8%AA%93%E3%81%84_%28%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%29
このような事実・・異なった諸集団は、生活を「異なった道徳的見地(perspective)から」見る・・は、グリーンが「共有感覚道徳性」と呼ぶところのものだ。
グリーンは、彼の本を、異なった諸価値に賛同する異なった諸種族はうまく折り合いを付けられないという例え話から始め、「彼らが戦うのは、彼らが、基本的に利己的だからではなく、道徳的社会がどうあるべきかということについて両立できない諸ヴィジョンを持っているからだ」と言う。
この道徳律の多様性が大きな問題であるとすれば、多様性を捨て去る、という解決法が自ずから示唆されてくる。
我々は、「一つの共通の通貨、すなわち、諸価値を秤量する統一システム」を必要とする、とグリーンは記す。
「我々に欠けているのは、思うに、競争し合っている道徳的諸部族の間での不同意群を解決するところの、一貫性のある全球的な道徳哲学なのだ」と。
彼が提案しているのは、エスペラント語の道徳的相当物以外の何物でもない。
仮にあなたが単一の惑星的<(=全球的)>道徳哲学をと主張しているとして、相対すべき一つの疑問が生じる。
どの道徳哲学を我々が用いるべきか、という・・。
グリーンは、謙虚にも彼自身の道徳哲学をご指名になる。
現実には、それはないだろう、という批判を免れまい。
グリーンが功利主義者であることは確かだ。
(いささか単純化すれば、)彼は、道徳的とは全般的な人間の幸福を最大化するものである、と信じているわけだ。
そして、全球的メタ道徳性に関する彼の候補者が功利主義であることは確かだ。
しかし、彼は、かかる選択を衝動的に行ったわけではないし、かかる選択には十分な理由がある。
初心者のために付言するが、あのトラック問題に係る諸脳スキャンがある。
思い出して欲しいのだが、功利主義的解決を選んだ人々は、それに抵抗した人々に比べて、自分達の脳の感情的な諸部位に左右される度合いがより少なかった。
さて、紛争関係にある諸集団が互いに共存することができる合意を叩きだそうとしている時、感情というのは一般に避けようとするものではなかったか?
その理由は、単に諸感情は制御が効かなくなりうるからだけではない。
もし諸集団が自分達の諸差異を話し合いで何とかしようとする時には、どうだろうか、それらについて議論をすることができなければなるまい。
だけど、もし道徳的直観の基盤が単にフィーリングだとするならば、議論すべきことは殆んどなくなってしまうはずだ。・・・
(続く)
またもや人間主義について(その5)
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