太田述正コラム#6693(2014.1.13)
<またもや人間主義について(その8)>(2014.4.30公開)
このような両極性(polarity)こそ、若い頃から人々の中で明白となるところの、十全なる正義の感覚へとやがて進化していくところのものの起源なのかもしれない。・・・
グリーンは、かくのごとき諸衝動や諸偏見の類のことを忘れているわけではない。
実際、彼は、我々の協力のための機構(machinery)や人間の本性一般の暗部について、説明している。
これら全てが、「我々の脳は部族主義のために配線されている」という彼の信条にくべられる。
しかし、彼はそのような観察結果の趣旨に思いをいたしていないように見える。
もし本当に我々が部族主義のために配線されているのだとすれば、問題の多くの部分は、異なる道徳的諸ヴィジョンと関わりがあるというよりは、自分の部族は自分の部族であってあなたの部族はあなたの部族である、という単純な事実と関わりがあるのかもしれないのだ。
グリーン<ら>は、ランダムに人々が二つの集団に分けられると、彼らがこの振り分けがランダムに行われたことを知っている場合ですら、資源配分にあたって自分達自身の集団の構成員達に、ただちに贔屓するようになる、という諸研究を引用している。
もちろん、<紛争の>たちが本当に悪くなるためには、二つの集団が存在しているだけでは足らない。
最もありふれた爆発的添加物は、この二つの集団の間の関係がゼロサムである・・すなわち、一つの集団の勝利は他の集団の敗北である・・という認識だ。・・・
あなたがゼロサム・モードに入っていて、あなたの競争相手の集団を貶めている時、あなた達のものと異なっているように見える諸価値のいかなるものもこの貶めの一端を担わされるかもしれない。
他方、連帯意識を高める一つの方法として、自分達自身の部族独自の、そして明確により優れた諸価値が、指摘されることだろう。
だから、部外者達は、<この二つの集団の間で>諸価値についての大きな議論がある、と思うかもしれない。
しかし、だからと言って、諸価値が問題の根っこにあるということにはならないのだ。 疑問点は、どれだけ異なった価値諸体系が大きな役割を演じているのかが、世界における最も顕著な諸緊張状態のうちの若干のものの上に蟠っているのか、なのだ。
多くの米国人達は、イスラムのテロリスト達が、彼ら闘士達をして、不信心者達を殺すか彼らをイスラムの旗印の下に連れてくるかを強いるところの、異星人的(alien)な「聖戦主義者(jihadist)」イデオロギーによって動機づけられているものと見ている。
しかし、「聖戦主義者達」が、彼らの諸攻撃を正当化する際に実際に言っていることは、米国にシャリア法を持ち込むこととは殆んど関係がない。
<そうではなく、>それは、米国がイスラム世界と戦争状態にあるという認識と関係しているのだ。・・・
そこには、倫理的諸原則に関する大きな違いなどはないのだ。
米国人達と「聖戦主義者達」は、自分が攻撃されれば報復することは正当化される・・<すなわち、それは、>正義の感覚の外延であり、強いられれば、もっともらしい功利主義的な理論的根拠を立てることができる・・という点について一致している。
<両者が>一致できないのは、その事例における諸事実・・果たして米国がイスラム世界に対して戦争を開始したのか<等>・・に関してだ。
同じことが、世界の最も深刻な諸紛争の大部分についてもあてはまる。
問題は、グリーンが言っているような、「全ての諸部族の構成員達がしゃべることができる道徳的言語」の欠如ではない。
よかれあしかれ、応報的正義(Retributive justice)が世界中でしゃべられている道徳的言語なのだ。
しかし、それは、誰が応報を受けるべきであるかについての、頑固にして致死的な偏見と対になっているのだ。
(続く)
またもや人間主義について(その8)
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