太田述正コラム#6717(2014.1.25)
<2014.1.25福岡オフ会次第(その1)>(2014.5.12公開)
一、始めに
福岡オフ会は、4次会(中州屋台ラーメン賞味)までつつがなく終了しました。
出席者は、私を除き、6→5→4→4名でした。
二、最初に、下掲のレジメを踏まえた、「軽い」話を私から行いました。
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–占領史観で貫かれた、NHKの昨年の大河と今年の大河–
1 昨年の大河「八重の桜」
(1)横井小楠
横井小楠(1809~69年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%B0%8F%E6%A5%A0
については、太田コラムで何度も取り上げているのでここでは繰り返さない。
私が、彼を、19世紀後半の日本における最重要人物と考えていることはご承知の通りだ。
(ただし、「横井小楠コンセンサス」シリーズ(コラム#6579、6581)は未公開。)
(2)昨年の大河の実質的主人公
ところが、昨年の大河の実質的主人公は、人間主義者であった横井より19歳下の、敬虔なプロテスタントとなった、しかも横井の思想的後継者的側面のある山本覚馬だった。
山本覚馬(1828~92年)は、「『管見』(かんけん)は、慶応4年(1868年)6月、覚馬が新政府に宛てて出した(御役所宛てとなっている)、政治、経済、教育等22項目にわたり将来の日本のあるべき姿を論じた建白書である。自分の見解(管見)と謙称している。・・・
<これは、>思想家・横井小楠が富国・強兵・士道(経済、国防、道徳)の確立を唱えた「国是三論」に酷似しているが、さらに発展させ<た形になっている>。
<彼は、>1875年・・・春、当時大阪で伝道中のアメリカの会衆派の宣教団体アメリカン・ボードの宣教医M・L・ゴルドンから贈られた『天道溯原』を読んで大いに共鳴、キリスト教こそが真に日本人の心を磨き、進歩を促進する力となり得ると感じ<、後に入信している>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E8%A6%9A%E9%A6%AC
という人物だ。
しかも、後半で、彼に新島襄をからませている。
新島襄(1843~90年)は、「元服後、友人から貰い受けたアメリカの地図書から、アメリカの制度に触れ、憧れを持つようになる。その後、幕府の軍艦操練所で洋学を学ぶ。ある日、アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出会い「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意し、備中松山藩の洋式船「快風丸」に乗船していたこともあり、当時は禁止されていた海外渡航を思い立」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B3%B6%E8%A5%84
った人物だ。
その上、念には念を入れて、やはり後半でだが、小楠の息子である横井時雄まで重要人物として登場させている。
横井時雄(1857~1927年)は、「日本の牧師、ジャーナリスト、編集者、元逓信官僚、元衆議院議員、同志社第3代社長(現・総長)。一時期、伊勢時雄を名のる。
父は横井小楠。金森通倫・徳富蘇峰・徳冨蘆花は、母方の親戚にあたる。最初の妻は山本覚馬の次女で、後妻は柳瀬義富の五女、豊。妹は海老名弾正の妻である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E6%99%82%E9%9B%84
(3)異常さ
NHKは、明治期の日本は、人間主義を克服し、米国の思想や制度に倣うべきであったこと、とりわけ米国のプロテスタンティズムを信奉すべきであったこと、を日本人に訴えようとした、と言われても仕方なかろう。
2 今年の大河「軍師 官兵衛」
(1)三方一両損
「落語。講談に取材したもの。左官金太郎が3両拾い、落とし主の大工吉五郎に届けるが、吉五郎はいったん落とした以上、自分のものではないと受け取らない。大岡越前守は1両足して、2両ずつ両人に渡し、三方1両損にして解決する。」
http://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E6%96%B9%E4%B8%80%E4%B8%A1%E6%90%8D
<実は、これは>「板倉伊賀守勝重が京都所司代であった時の話である。
京都の三条大橋付近で金三両を拾った者があり、勝重を訪ねて来て、「落とし主を探しましたが、見付かりませんので お届けいたします」と言った。
勝重は京都の町の辻々に張り紙をさせ、落とし主を捜させた。すると、ある日、一人の男が、 「私が落とした金銭です。しかし、受け取るわけにはいきません。天が、その人に与えたものですから」 と言って辞退した。ところが 拾ったほうも、着服せずに届け出るような人だったので、受け取るはすがなかった。しばらく、二人の問で譲り合いが続いた。勝重は、 「今どき珍しい人たちだ。このような裁きができるとは何と喜ばしいことだ」 と言って、 「では、わしも仲間に入れてもらおうか」と、 新たに金三両を持ち出して来て、拾った金銭と合わせ、六両にしたうえで、 「さあ、これを三人で分けよう」と言い、 二人に二両ずつを与え、自分も二両を受け取りながら言った。
「今後、仲長くしよう。何ごとによらず、申すことがあったら、また聞かせてくれ」。
『続近世畸人伝』より。
・・・江戸っ子の”強情っ張り”と、”宵越しの金は持たない”なんてかっこのいい台詞は京都にもあったんですね。「三方一両損」ではなく「三方二両得」です。」
http://ginjo.fc2web.com/37sanbouitiryozon/sanbou.htm
(2)板倉勝重
板倉勝重(1545~1624年)は、「安土桃山時代から江戸時代前期の旗本、大名。江戸町奉行、京都所司代。板倉家宗家初代。史料では官位を冠した板倉伊賀守の名で多く残っている。優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、敗訴した者すら納得させるほどの理に適った妥当な裁きを見せ、大岡忠相が登場するまでは、名奉行と言えば誰もが勝重を連想した。・・・
<彼は、>板倉好重の次男として三河国額田郡小美村(現在の愛知県岡崎市)に生まれる。幼少時に出家して浄土真宗の永安寺の僧となった。ところが・・・1561年・・・に父・・・が・・・戦死、さらに家督を継いだ弟の定重も・・・1581年・・・に・・・戦死したため、徳川家康の命で家督を相続した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%80%89%E5%8B%9D%E9%87%8D
板倉こそ、時系列的に、北条得宗家の二人、北条時頼と横井小楠(コラム#6582)の間に登場したところの、日本の人間主義の旗手の一人、と言えよう。
(3)大河の主人公
ところが、今年の大河の主人公は、板倉と全く同じ世代の、しかも仏僧上がりの板倉ではなく、敬虔なカトリック教徒になる黒田孝高(よしたか)だ。
黒田孝高(1546~1604年)は、「関ヶ原の合戦の後、<息子の>長政が先に勲功として家康から筑前国名島(福岡)32万6,000石(再検地後の申請は52万3,000石)への加増移封となった。翌年、如水にも、これとは別に上方での加増が提示されるが辞退し、その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送った。晩年は再建に努めた太宰府天満宮内に草庵を構えている。・・・
<つい最近の暴力団に関するシリーズとともに、福岡オフ会とご縁のある話だ。(太田)>
1604年4月19日・・・、京都伏見藩邸にて死去。59歳。死の間際、如水は自分の「神の子羊」の祈祷文およびロザリオを持ってくるよう命じ、それを胸の上に置いた。そして次のように遺言した。自分の死骸を博多の神父の所へ持ち運ぶこと、長政が領内において神父たちに好意を寄せること、イエズス会に2000タエス(約320石に相当)を与え、うち1000タエスを長崎の管区長に、1000タエスを博多に教会を建てるための建築資金に充てること、である。
4月のある夜、午後10半頃、博多の教会の宣教師たちは如水の遺骸を、博多の町の郊外にあって、キリシタンの墓地に隣接している松林のやや高い所に埋葬した。主だった家臣が棺を担い、棺の側には長政がつきそった。如水の弟で熱心なキリシタンであった黒田直之が十字架を掲げ、直之の息子と、徳永宗也の甥が松明を持ち、ペロ・ラモン神父とマトス神父は祭服を、修道士たちは白衣を着ていた。墓穴は人が200も入るほどの大きなもので、その中に着いたのち宣教師たちは儀式を行い、それから如水を埋葬した。同じ夜、長政は宣教師のもとを訪れ、葬儀の労に謝し、翌日には米500石を贈った。その15日か20日 後、長政は仏式の葬儀もおこなっているが、その詳細は分からない。
如水の死から2年後、如水の追悼記念聖堂が完成し、1606年4月28日からその翌日にかけて宣教師たちは荘厳な式典を行った。それは聖堂の献堂式に始まり、2日目には如水の追悼ミサが執り行われ、これには長政や重臣たちも参列した。ミサの後長政は、宣教師たちを福岡城に招いて宴を設け、照福院は教会のための特別な寄付を行ったという。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AD%9D%E9%AB%98
蛇足ながら、孝高の息子の、初代福岡藩主、黒田長政のウィキペディアには間違いがある。(上述したことを踏まえれば、間違いは明らかだろう。)
「<1587年の>バテレン追放令<
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E8%BF%BD%E6%94%BE%E4%BB%A4 >
により、秀吉から改宗を迫られ、父の孝高が率先してキリスト教を棄教すると長政自らも改宗した(X)。徳川政権下では迫害者に転じ、領内でキリシタンを厳しく処罰したという。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%95%B7%E6%94%BF
なお、「江戸時代に入り、1613年・・・には禁教令も出されたため、秀吉に改易されながらも最後まで棄教を拒んだ高山右近はマニラ(フィリピン)に追放され、有馬晴信は刑死し、以後キリシタン大名は存在しない」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%B3%E5%A4%A7%E5%90%8D
わけだが、バテレン追放令が出たのはそれよりも26年も前の話だ。
ただし、1596年にサン=フェリペ号事件、1597年にがあったことを忘れてはなるまい。
サン=フェリペ号事件については、同号が日本に漂着すると、秀吉は、「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない・・・<とし、>積荷と船員の所持品をすべて没収し、航海日誌などの書類をすべて取り上げて破棄<した。>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%9A%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6
そして、「サン=フェリペ号事件をきっかけに、秀吉は・・・再び<キリスト教>禁教令を公布した。また、イエズス会の後に来日したフランシスコ会の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して処刑するよう命じた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AD%E8%81%96%E4%BA%BA
この処刑は、官兵衛の死、そしてそして彼の壮麗なカトリック葬儀のわずか7年前のことだ。
(3)異常さ
まだ、今年の大河は始まったばかりだが、NHKの狙いは、昨年の大河のダメ押しで、人間主義に比較してのキリスト教の優位を訴えることか、と勘繰りたくなる。
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付け加えた主なことは以下の通りです。
「私は、NHKの番組は大河しか観ないのですが、その代わり、米国留学と英国「留学」の時期を除き、ほぼ全ての大河を観てきています。
そんな私が、かねてより首をひねってきたのが、概ね、安土桃山時代や幕末という、世の中が乱れていた時代が大河の舞台になることもあるのですが、主人公達がやたら「平和」への思いを口にすることです。
主人公は、概ね武士階級の人々であり、彼らの奥方達がそれを口にすることさえ不自然なのに、武士たる主人公達まで口にするのですからね。
250年間の和平を実現した家康だって。「厭離穢土」「欣求浄土」を馬印にした
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%AD%E9%9B%A2%E7%A9%A2%E5%9C%9F
けれど、これ、穢土=戦乱、浄土=平和、じゃあ必ずしもありませんよね。
で、相当前に思いあたったのは、「国営」放送のNHKが、政府自民党の意向を受けて、吉田ドクトリンの視聴者への刷り込みに、鋭意、これ努めているのだ、ということです。
しかし、昨年と今年の大河は突出しています。
(今年の大河については「勘繰り」の域を越えませんが、)「平和」の連呼では飽き足らず、キリスト教を平和と進歩の使徒として描くことで、(直接的間接的に、)キリスト教をいわば国教にしている宗主国米国の称揚と、その米国への隷属を恒久化することを意図しているとしか思えないのです。
少なくとも、昨年の大河は、NHK、或いはNHKの外に相当悪知恵を持った者がいて、周到に脚本の骨格を拵えた可能性が大です。
いくら「国営」放送だとはいえ、NHKが、何も、人民網のように、日本や日本人をべた褒めするとともに、(人民網の場合はひねった形ではあるが)日本の再軍備/「独立」を訴えるべきだとまでは言いませんが、いいかげん、吉田ドクトリン色を大幅に薄めてしかるべきなのに、その真逆を行くとはひど過ぎます。
一体、黒幕は誰なのでしょうね。
それにしても、日本で、私のような声を上げる視聴者が「右」からも全く現れないのは、一体どうしてなのか。
それこそ、戦後日本では右が払拭していて「右」ばかりになってしまったことの証拠でしょう。」
次に、「日本の世界史的使命/「アーロン収容所」再読(その15)」(コラム#6717)を踏まえた話をしました。
付け加えた主なことは以下の通りです。
「日本文明の至上性については、それを支える人間主義の、欧州文明のキリスト教(人間中心主義/集団主義(全体主義)・利己主義/利他主義)に対する優位はもとより、アングロサクソン文明の反個人主義(反産業主義及びコモンロー付き)に対する優位・・残りの文明については論じるまでもない・・ということであるわけです。
この際、日本文明のアングロサクソン文明に対する優位を、具体的に政治・行政面で見てみましょう。
先ほど取り上げた、板倉勝重による三方一両損の裁定は、法に基づくものでも先例に基づくものでもなかったからこそ、後世、脚色されつつ語り継がれていくことになったわけです。
これは、我々は、裁判の話というよりは、(当時、行政と司法とはそもそも分離していませんでしたが、)政治・行政の話と受け止めるべきでしょう。
政治においても行政においても、どんな案件でも、通常、異なった利害の、多くの場合は真っ向から利害が対立する、関係者が存在するものであり、その中で政治家や行政官・・以下、裁定者と言う・・は裁定を行っていかなければなりません。
そんな場合、日本の裁定者は、利害関係者達の言い分に耳を傾け、その各人の心中を忖度した上で、その都度、個別具体的に最も妥当な裁定を下した、いや、下そうと努力したわけです。
もとよりこれら裁定者は、法も先例も参照したことでしょうが、法は(少なくとも現在で言う民事に関しては)一般的指針にしか過ぎず、また、先例についても、個別具体的な裁定ばかりで、それらを貫く一般的先例を見出しがたく、仮に見出せた場合でも、先例拘束性はないので、裁定者の大幅な裁量が許されていたところの、極めて裁定者にとって高い能力と重い負担が要求される体制であったと言うべきでしょう。
こんな精妙な体制が存続可能であったのは、裁定者はもとより、利害関係者も、その大部分が人間主義者であって、過度に利己的な姿勢をとらなかったからであり、かつ、裁定者のところに持ち込まれる件数が、大部分の利害調整が、自主的に、或いは民間の裁定者が中に入ってなされたことから、少なかったからである、と考えられます。
日本という、概ね世界でただ一か所において、信じ難いことに、権力、すなわち公的裁定者側、と全面対決する革命、騒擾の類が一切起きたことがない(コラム#5756、5969)のは、このような人間主義的な政治/行政制度の賜物である、と言えるでしょう。
イギリスでさえ、17世紀に王殺しを伴う凄惨な革命が起こっています。
イギリスの、欧米世界では例外的な人間主義的政治・行政制度が、しかし、日本のそれに比して遜色があることは明らかです。
よって、政治/行政以外における日本文明とアングロサクソン文明の比較をするまでもなく、日本文明の優位、つまりは至上性、は明らかである、ということです。
このような体制が、全球化した環境の下で、開国した日本において今後とも維持できるか、については、判断を留保したいと思います。」
2014.1.25福岡オフ会次第(その1)
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