太田述正コラム#6723(2014.1.28)
<個人の出現(その1)>(2014.5.15公開)
1 始めに
ラリー・サイデントップ(Larry Siedentop)の『個人の発明–欧米リベラリズムの諸起源(Inventing the Individual: The Origins of Western Liberalism)』の概要を、その二つの書評をもとにご紹介し、私のコメントを付そうと思います。
サイデントップ(1936年~)は、シカゴ生まれで、ミシガン州のホープ単科大学(Hope College)卒、ハーヴァード大修士ですが、博士号をオックスフォード大でとり、引退まで、同大でフェローや講師を務めたことを考慮すれば、イギリス人になった、と言ってもいいでしょう。
専攻は、政治哲学であり、とりわけ、フランスにおけるリベラリズム研究です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Larry_Siedentop
彼には、EUを批判的に分析した著書『欧州における民主主義(Democracy in Europe)』があり、また、彼は、トックヴィル(Tocqueville)の専門家としても知られています。(A)
A:http://www.ft.com/intl/cms/s/2/26722be8-81f1-11e3-87d5-00144feab7de.html#axzz2rLsgMgGl
(1月25日アクセス)
B:https://kenanmalik.wordpress.com/2014/01/25/christianity-and-liberalism/
(1月27日アクセス。下掲はその要約版)
http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/books/reviews/inventing-the-individual-by-larry-siedentop-book-review-an-engrossing-book-of-ideas-that-redefines-liberalism-as-a-child-of-christianity-9081651.html
このシリーズの狙いは、イギリスの人文・社会科学の劣化とその本来的限界を明らかにすることです。
2 個人の出現
(1)サイデントップの主張
中世のカトリックの神学、哲学、そして法は、欧米のリベラリズムの諸淵源(roots)を探す場所群として最も明白ではない。
しかし、ラリー・サイデントップによれば、<リベラリズムの諸淵源>は、個人たる人間の中における「道徳的平等性(moral equality)」の観念の中に見出すことができるというのだ。
この概念こそが、キリスト教の欧米を世界のその他と区別するとともに、そのカトリック的諸起源を忘れ、しっかり(staunchly)世俗的なものとして自らを宣言したところの、リベラル・イデオロギーをそこから芽生えさせた苗床(seed bed)を提供した、と彼は信じている。
「それが内包する基本的諸仮定(assumptions)において、リベラル思想はキリスト教の子孫(offspring)なのだ」、何となれば、「リベラリズムは、キリスト教によって提供された道徳的諸仮定に立脚しているからだ」と彼は主張する。
世界のその他の諸地域において、社会がいかなる方向性を持つことができ、持つことができるかについて、異なった諸仮定が支配的である(hold sway)だけに、これらの諸価値は擁護される必要がある、と。
支那では、「統治イデオロギーが功利主義の甚だしい(crass)形態へと堕してしまい」、人間の自由(liberty)を蹂躙(trample)しているけれど、これは「我々の最も深い諸直観の幾ばくかを傷つける(offend)ものだ」と彼は述べる。・・・
<リベラル思想は、>聖パウロ(Paul)<(コラム#337、1019、1204、1233、3100、3151、3616、4078、4884、5326、5388、5390、5402、5408、5414、5416、5422、5432、5566、6024、6146、6304、6365、6485、6493)>から14世紀のイギリス人思想家のオッカムのウィリアム(William of Ockham)<(注1)(コラム#552、6338)>に至るキリスト教思想家達によって提供された呼び水なくしては出現することは全くありえなかっただろう、と。・・・
(注1)Occamとも。
彼は、古代世界においては、社会の全構成員の平等な地位という感覚は存在しなかった、という観念から始める。
ローマの家長(paterfamilias)は、単に家族の象徴的な頭ではなく、その統治者であって、若い男性と女性の構成員達に対して完全な統制権を行使した。
サイデントップの見解によれば、聖パウロによって広められたキリスト教メッセージ・・彼らがキリストの言葉を受け容れる限り、神の目から見れば、奴隷も自由人もギリシャ人もユダヤ人も異なった地位にはない・・によって、これは挑戦を受けたのだ。・・・
(続く)
個人の出現(その1)
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