太田述正コラム#6727(2014.1.30)
<個人の出現(その3)>(2014.5.17公開)
サイデントップによれば、決定的な歴史的分水嶺(cleavage)は、近代性と前近代性の間にではなく、古代世界とキリスト教の間にあるのだ。
おおむねルネッサンス・・その芸術家達と思想家達は古の時代の諸栄光を振り返ることでキリスト教の「暗黒時代」の後における文化の諸再生誕を自分達が行っていると見ていた・・のおかげで、我々は、今日、古代世界を近代ヒューマニズムの源泉と見がちだ。
<しかし、>サイデントップに言わせれば、実際のところ、古典ギリシャは、生来的不平等と抗い難い運命に関する確固たる信条に立脚したところの、深く宗教的で高度に迷信深い社会だったのだ。
サイデントップは、それは、「救いようがないほど(irredeemably)貴族的な」世界だった、と記す。
宇宙(cosmos)の構造そのものが自然と社会双方における不平等性を命(dictate)じていた、と。
純理性(rationality)は、選ばれた少数者の持ち物(possession)とみなされていた、とも。
ギリシャ人達は、家族や都市国家(polis)<(注6)>と切り離された個人の概念も、自由意思の観念も、持ち合わせていなかった、とも。
(注6)「ポリスの市民の多くは都市郊外か周辺農村に住んでいた。ギリシア人は、ポリスを領土の分類分けとは見なさず、宗教的政治的団体とも見なさなかった。ポリスはその都市自体を超えて領土と植民都市を統御していたのであるから、単なる地理的な領域から成立するものではない。・・・メトイコイ(在留外国人)と奴隷は、このような組織には入っていなかった。市民権は生まれにより通常決定された。各ポリスは崇拝する守護神、特有の祭儀及び習慣を持っていた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%B9
キリスト教は、この世界観を革命<的に変革>した、とサイデントップは主張する。
その核心には二つの主張があった。
道徳的平等性と人間の作因だ。
古代人にとっては、神々は、現実の合理的(rational)構造によって制約されていた。
<ところが、>一神教的神は、それが、ユダヤ教であれ、キリスト教であれ、また、後にはイスラム教であれ、全能(all-powerful)であり、何物によっても制約されない。
神は、彼が選んだ行為を行うことができるわけだ。
この神に関する新しいヴィジョンは、作因と意思の新しい概念への道を開いた。
<その中でも、>キリスト教をして根本的に異なったものとし、革命的にしたところのものは、それが無制約の神というユダヤ教の概念と合理的宇宙(universe)というギリシャ的概念とを結び付けたことだ。
キリスト教の見解では、この無制約の神が、相互に平等な、そして自由意思を持った合理的な作因群たる人間達を自らの姿に似せて創造したのだ。
この、平等性と作因という二つの観念群は、聖パウロによって最初に形成された。
聖パウロは、恐らく、「人類史における最大の革命家」であり、「[彼が]宗教としてのキリスト教を発明した、と言っても多分過言ではない」、とサイデントップは示唆する。
サイデントップは、これら諸概念の発展を、アクィナスとともにその最も影響力ある神学者として屹立しているアウグスティヌス(Augustine)<(コラム#471、1020、1169、1761、3618、3663、3908、5061、5100、5298、6024、6171、6302)>から、「経験」は本質的に諸個人の経験である、かつ、「一連の基本的(fundamental)諸権利が個別(individual)作因を守らなければならない」、と主張し、かくしてリベラリズムの諸基盤(foundations)を確立したところの、教会法を作り上げる(fashion)ことを助けた中世の諸哲学者達までを、キリスト教の伝統を通して辿る。
単に、それ以降の諸世紀における「反教権主義(anti-clericalism)」<(注7)>が、リベラリズムがキリスト教に根差していることをぼやけさせただけのことなのだ、とサイデントップは執拗に主張する。」(B)
(注7)「宗教上の権威、特にローマ・カトリック教会または教皇の権威・権力(=教権)を否定する考えをさす。広義では、聖職者あるいは宗教自体が、政治や市民の日常生活など、精神世界以外の世俗分野に介入すること全般に反対する立場を意味する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E6%95%99%E6%A8%A9%E4%B8%BB%E7%BE%A9
(続く)
個人の出現(その3)
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