太田述正コラム#6731(2014.2.1)
<吉田松陰と山県有朋(その1)>(2014.5.19公開)
1 始めに
コラム#6722で、朝鮮日報の記事に触発されて吉田松陰のことに触れたばかりですが、松陰については、私には、これまで、教育者でアジテーターである、という認識こそあれ、思想家である、という認識はなかったので、不意を衝かれた感がありました。
そこで、松陰の「思想」がどんなものであったかを振り返るとともに、事例研究的に、それが彼の「高弟」の山県(山縣)有朋に影響を与えているかどうかを検証してみることにしました。
2 吉田松陰の「思想」
吉田松陰(1830.9~1859.11)は、1854年に以下のように記しています。
「今急武備を修め、艦略(ほ)ぼ具はり礟(ほう)略ぼ足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムサッカ)・隩都加(オコック)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲(きん)会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・呂宋(ルソン)の諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし。然る後に民を愛し士を養い、慎みて辺圉(ぎょ)を守らば、則ち善く国を保つと謂ふべし」(『幽囚録』(1854年))(注1)
http://homepage2.nifty.com/kumando/mj/mj011005.html
(注1)吉田松陰に関する日本語ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0
は余りに短く、彼の著作目録すらついていないため、『幽囚録』と『講孟余話』(後出)のそれぞれの執筆時期を自分で調べざるをなかった。
『幽囚録』執筆を1854年としたのは、下掲の(これまたできの悪い)典拠による。
「安政元年(1854年)に江戸伝馬町の獄から移送され、萩の野山獄に入牢の身となった松陰は、入獄中に別冊とした「幽囚録」を含めて「士規七則」「桂小五郎に与うる書」など五十数篇を「野山獄文稿」としてまとめた。これは、松陰が二十五歳<(1855年~)>から二十六歳<(1856年~)>までの文章を松陰自ら編集したものである。」
http://www.winbell-7.com/roman/mokuroku/win-1/syoin/win0020001.html
まさに、これぞ対外膨張論、といった代物ですね。
ところが、松陰は、別のところでは、次のように記しています。
「軍備なくとも仁政があれば大丈夫である。仁政の国を攻めてくるような国の支配者は、その国に仁政をしいていないから、国内は必ず動揺しよう」
「上陸してきても、敵を少しも防ぐことはない。兵は農民、漁民の中に雑居せしめ、一見、武備はないようにみせ、人々には思い思いに降伏させて生命を完うさせる。ただ、非常に乱暴する者がある時はとらえて牢にいれ、敵将に諭させる。無茶を要求するときは断固としてそれを排除し警告する。侵略者たちも、武備もないのに志強く、詞も強いとみれば、きっと反省する所があろう」
「その間、つとめて、その国の忠臣、義士を刺激して、彼等にその国を正させるように働きかける。そうすれば最後には必ず勝利する」
「この策は大決断、大堅忍の人でなければ、決してやりとげることはできない。もし、はじめに少しばかりこれをやろうとしても、途中でまた、戦いに応ずるときは、その害はいいあらわせないほどに大きい」(以上、『講孟余話』(1856年))(注2)
http://www.asahi-net.or.jp/~kd6k-ymmt/yosida.html#5ー3
(注2)下掲の2つのものから、『講孟余話』執筆を1856年と判断した。
「獄中内で囚人に対しての『孟子』の講義、および出獄後の郷里での講義を一冊にまとめたもの。本書は当初『講孟箚記<(さっき)>』と名づけられたが、のち松陰自ら『講孟余話』に改題。そののち友人の意見により再び『箚記』に戻された。」
http://koten.sk46.com/sakuhin/komosakki.html
「<18>56年《講孟余話》としてまとまった」
http://kotobank.jp/word/%E3%80%8A%E8%AC%9B%E5%AD%9F%E4%BD%99%E8%A9%B1%E3%80%8B
なお、引用文は現代語訳であり、本来は、原文にあたるべきだったがその労を惜しんだことをお断りしておく。
こちらの方は、何と、非武装無抵抗論です。
このことについて、『講孟余話』から上記のような引用を行い、現代語訳を行った池田諭(注3)
http://www.asahi-net.or.jp/~kd6k-ymmt/yosida.html#
http://www.amazon.co.jp/池田-諭/e/B004KX3LYA/ref=ntt_athr_dp_pel_1
は、「松陰を矮小化して、自分たちに都合よく解釈したい人たちは、松陰がこの思想的立場に到達する前の嘉永六年<(1853年)>にいった、「朝鮮、満州、支那をきり従え、貿易で失うところを土地で補ったらよい」との言葉<等>だけによりかかり、安政三年<(1856年)>には、「北海道、流球を開墾し、朝鮮をとり、満州をひっぱりつけ、支那や印度を味方にして、西洋列強にあたる」といっていたのが、安政六年<(1859年)>になると「西洋列強にたちむかうためには、航海通市以外にはない。だから、朝鮮、満州、支那を訪ね、ジャバ、ボルネオ、オーストラリアを訪う」と変わってきている事実をみようとしない。」
http://www.asahi-net.or.jp/~kd6k-ymmt/yosida.html#5ー3 前掲
と、吉田の「思想」が「発展」したからだ、という説明を行っています。
(注3)1923~75年。広島文理科大史学科卒。高校教諭、雑誌編集者、雑誌記者。「吉田松陰」「親鸞道元日蓮」「生き方としての独学」「人間変革の思想」「燃えるアジアと日本の原点」など多数の著作を残す。」
http://www.asahi-net.or.jp/~kd6k-ymmt/
http://www.asahi-net.or.jp/~kd6k-ymmt/nenpu.html#池田諭年譜
しかし、果たしてわずか2年の間に、安全保障に係る思想が180度変わるものでしょうか。
私は、松陰は、同時にこの一見180度異なる「思想」を抱いていた、と考えざるをえないのです。
松陰は、縄文人化した弥生人(武士)の典型であって、その対外膨張論といい、非武装無抵抗論といい、要は、鎖国ボケした安全保障音痴が吐いた思い付き的戯言以外の何物でもない、というのが私の見方です。
ただし、そんな松陰でも、安全保障に関してまぐれ当たり的に正鵠を射ることがあったのは面白いですね。
彼の下掲の米国の対外政策観がまさにそうです。
「英国が清を攻めたとき、清から援助を求められたが、我が国としては戦争をおこしたくないので、その申し出をことわったと筋の通ったことをいった翌年には、英国と一緒になって清を改めているアメリカのやり方をみていると、信じようとしても信じられない」(松島剛蔵あての手紙)「アメリカは英、蘭と違って、東方に領地を欲しないといっているが、たしかに、まだ寸地も得ていない。しかし、それは力が不足しているためである。力があれば、イスパニアのルソン、オランダのジャバ、イギリスのセイロンの如きものを欲しないわけがない。唯、力のないために、仁義の言をはいているにすぎない」(野村和作あての手紙)
http://www.asahi-net.or.jp/~kd6k-ymmt/yosida.html#5ー3 前掲
いずれにせよ、こんな他愛のない松陰の安全保障論など、(後で山県有朋について検証しますが、)少しはその方面の勉強をし、或いは実体験をした彼の弟子達に影響を与えるはずがありますまい。
なお、松陰が、「松下村塾において・・・久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義などの面々を教育し」、
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=266636
幕末の革命家達や明治期の指導者達を輩出させたことは余りにも有名であり、教育者としての松陰の偉大さは誰にも否定できないところです。
そして、これらの弟子たちを鼓吹したのは、陽明学者としての松陰の「知行合一」精神
http://free-bird.info/?eid=116
であり、水戸学から借り受けそれを純化したところの松陰の「一君万民」
http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/2677/1/al-no65p049-059.pdf
なる、討幕/攘夷を訴えるアジテーションであったことも押さえておきましょう。
(続く)
吉田松陰と山県有朋(その1)
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