太田述正コラム#6735(2014.2.3)
<個人の出現(その5)>(2014.5.21公開)
 (3)サイデントップの主張に対する批判
 「聖パウロは、人間の歴史における最大の革命家だった」とサイデントップは述べる。 彼が引用するところの、<パウロの>革命的諸文章なるもの・・自分がされたくないことを他人にしてはならない、隣人を自分自身であるかのように愛せ・・の大部分が、ヘブライ聖書その他のユダヤ教の諸原典からのものであるにも関わらず・・。
 サイデントップは、明確に西側の伝統として「道徳的平等性」の跡を辿るが、東方の<キリスト教>諸教会、とりわけギリシャ正教会もまた、聖パウロを過去からずっと知っていたところだ。
 また、彼は、彼が極めて強調しているところのカトリックの教会法の諸規定(codes)よりも古い法の諸規定によって支えられていた、一種の信者間の「道徳的平等性」について、イスラム教においても説教がなされた可能性に関心を向けない。」(A)
 「<キリスト教における「道徳的平等性」>がいかに排他的たりうるかは、1492年にコロンブスが大西洋を横断した後の、欧州人達のそれまで知られていなかった新世界の人々に対する対応において示されたところだ。
 これらの諸出会いは、サイデントップは完全に無視しているけれど、個人の本性に関する諸疑問を提起している。
 中世諸都市と都市自治(urban self-government)の勃興は、サイデントップが正鵠を射ていないもう一つの点だ。
 彼は浪漫的に、全市民が平等であったと考えている。
 しかし、それはフィレンツェ、ヴェネツィア、その他における実態ではなかった。
 これらの都市では、貴族であるかどうかが重要だったし、(ローマの時代の家長と極めて似ていた家父長によって行使された)家の権力が政治の核心に存したのだ。
 彼がかくも過度に、流暢な内容ではあるものの大昔の、1828年と1840年に出版された<フランスの>フランソワ・ギゾー(Francois Guizot)<(コラム#6591)>の諸業績に依拠しなかったら、そして、クリス・ウィッカム(Chris Wickham)<(注11)>やロバート・バートレット(Robert Bartlett)<(注12)>といった<イギリスの>一流の中世史家達の著作を一つでも読んだ何らかの兆候があれば、彼が描く中世の欧州の絵はもう少し戯画的にならなかったはずだ。
 (注11)1950年~。オックスフォード大卒、博士。バーミンガム大を経て、オックスフォード大中世史教授。中世イタリア史が専門。
http://en.wikipedia.org/wiki/Chris_Wickham
 (注12)1950年~。ケンブリッジ、オックスフォード、プリンストン各大学で学び、ミシガン、ゲッティンゲンのゲオルグ・アウグスト大で研究し、エディンバラ、シカゴ大を経て、セント・アンドリュース大中世史教授。中世における植民、聖人信仰、11~14世紀イギリス史が専門。
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Bartlett_(historian)
 サイデントップは、神の現代諸政治における位置(place)について我々を説得しようとすることに果敢(bold)である、としか言いようがない。
 しかし、『個人の発明』を詳細に読めば読むほど説得力が薄れるのだ。(Unfortunately for Inventing the Individual, the devil is all in the detail.)」(A)
 「キリスト教が、平等の諸観念と人間性(humanity)の普遍的諸ヴィジョンの発展に主要な役割を演じたことは確かだ。
 しかし、階統制と不平等性の諸観念がキリスト教の伝統の中心であり続けた<ことも事実だ>。
 アウグスティヌスは、「女達が男達に、子供達が自分達の両親達に、仕えなければならないのは事物(things)の自然の秩序なのだ。なぜならば、より理性(reason)において弱い者がより強い者に仕えることは、本質的に(in itself)正当(just)だからだ。」と説教した。
 家族でそうだったように社会でもそうだった。
 生来的に(be given by nature)、下層階級は上流階級に、そして、全員が皇帝に、仕えることとされていた。
 奴隷制もまた、「自然の秩序の維持を申付ける法によって懲罰として定められ、それを揺り動かすことは禁じられている」<ものとされていた>。
 社会の統治者達は、社会の平和を守るために、懲罰的行動・・それには無辜の人々の拷問さえ含む・・をとることができるが、諸個人にはこのような権利はない<、とも>。
 神学者のジョン・リスト(John Rist)<(注13)>が述懐するように、アウグスティヌスの中では、「普通の市民達の諸力は殆んどなきに等しい」<のだ>。
 (注13)ケンブリッジ大の研究者であると思われる。
http://essential.metapress.com/content/8xg71t73x16p74w7/
 自分達自身が「群衆」について懸念を抱いていたところの、プラトンとアリストテレスでさえ、「このような市民権に係る空虚な概念には身の毛をよだたせたことだろう」とリストは付け加えている。
(続く)