太田述正コラム#6753(2014.2.12)
<個人主義の起源(その9)>(2014.5.30公開)
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<脚注:テュートン人(Teutones)>
「BC2世紀末にテュートン人の多くは、彼らの指導者であるテュートボッド(Teutobod)の下、キムブリ人(Cimbri)[・・ゲルマン人の一支族・・
http://en.wikipedia.org/wiki/Cimbri ]
同様、原住地のスカンディアヴィア南部及び<現在の>デンマークのユトランド(Jutland)半島から南部および西部へとドナウ渓谷に向けて移住し、拡大しつつあったローマ共和国と出会った。
テュートン<(テウトニ)>人とキムブリ人はローマのイタリアを攻撃する前にガリアを通ったと記録されている。・・・
<しかし、ローマの>ガイウス・マリウス(Gaius Marius)[・・大マリウス(BC157~86年)。市民兵制から職業軍人制への軍制改革を行うとともに、7回執政官に就任。妻はカエサルの叔母・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9 ]
によってBC102年と101年に・・・敗北させられ、キンブリ<・テウトニ>戦争は終わった。・・・
テュートン人の言語的類縁性については歴史家の間で議論の対象になっている。
彼らの名前は形態的にはケルト系(Celtic)であり、多くの著述家達は、テュートン人は実際には、恐らくはヘルヴェティー(Helvetii)人[・・BC1世紀にスイス高原の大部分を占拠していたガリア人たるケルト人・・
http://en.wikipedia.org/wiki/Helvetii ]
から枝分かれしたケルト人である、と信じている。・・・
しかし、・・・彼らをゲルマンの人々(Germanic peoples)に分類する方がより可能性の高い見解だろう。・・・
この部族に直接関係しているというわけではなく、より広義において、テュートンの人々ないし単にテュートン人は、現在、一般的には、印欧語族中のゲルマン系の諸言語を話す人々、とりわけ、ドイツ語を話す人々を指すものとして使用されている。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Teutons
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二、州(shire)簿(book)または教会簿への記載(enrolment)による移転の公示(publicity)。
三、死者の財産(estate)の息子達、及び欠陥ある息子達に代わって娘達、の間における平等なる分割。
四、おおむね、金銭ないし労働地代<(注19)>を負担するところの、各種の程度の農奴制(serfdom)の下にある人々による耕作。
(注19)「農民が賦役労働の形で納める封建地代。一定期間または一定時期に領主や地主の農場で農耕や作物の取入れ等に従事することを義務づけられ,それが地代とされるもの。労働地代は現物地代に発展する。」
http://kotobank.jp/word/%E5%8A%B4%E5%83%8D%E5%9C%B0%E4%BB%A3
五、地方諸法廷における同一の諸原則の適用を通じての種々の慣習が均一化される傾向。
六、土地がトリノダ義務<(太田による仮訳語)>(Trinoda necessitas)<(注20)>・・領域(realm)防衛目的で課された負担(burden)・・を伴っている(subjection of)こと。
(注20)「トリノダ義務(三つの結び目の義務<(太田による仮訳語)>(three-knotted obligation)のラテン語)は、アングロサクソン時代の「三つの部分からなる税(threefold tax)のことを指すために用いられた言葉。アングロサクソンの国王の臣民達は、三つの役務を供する(yield)・・橋補償<(太田による仮訳語。以下同じ)>(bridge-bote。橋と道路の補修)、砦補償(burgh-bote。砦(fortification)の構築と維持)、民兵補償(fyrdとして知られた民兵になること)・・ことを求められた。統治者達が臣民達をトリノダ義務から免除することは極めて稀だった。これらの諸役務はアングロサクソン王国の原動力(lifeblood)だったからだ。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Trinoda_necessitas
ノルマンコンケストがやったことは、私有の(allodial)土地所有制を一挙に<ノルマン公国、ひいてはフランスにおけるような>封建的土地所有制に変えないことだった。・・・
イギリスは、若干の欧州大陸諸国のように完全に封建化されることは決してなかったし、封建主義の重荷は顕著に感じられることはなく、かつ、それは改革への興奮(agitation)をより少なくしか呼び起こされなかった。」(D)
(続く)
個人主義の起源(その9)
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