太田述正コラム#6761(2014.2.16)
<資本主義と不平等(その2)>(2014.6.3公開)
 ピケティ氏は、彼が呼ぶところの、二つの「資本主義の根本法則」を通してこれらの趨勢を描写する。
 第一の根本法則は、資本の、(諸賃金にあてられる割合(share)ではないところの、)所得に対する割合のばらつきを説明する。
 それは、単純な会計的恒等式、すなわち、いつの時代でも、資本の割合(capital’s share)は、資本収益率(rate of return on capital)にGDPの一定の割合であるところの富の総額(total stock of wealth as a share of GDP)を乗じたものに等しい、だ。
 この収益率は、資本諸レント(rents)、諸配当、及び利潤、のフローとなるところの、全所得の合計額の、全資本の価値に対するパーセンテージだ。
 第二の根本法則は、より粗々の経験則であり、長期的には、かつ正しい諸状況の下では、国民所得のパーセンテージである資本の総額は国民貯蓄率の経済成長率に対する比率に近接しなければならない、というものだ。
 例えば、(概ね米国経済のそれであるところの)8%の貯蓄率と2%のGDP成長ならば、富は年間産出額の400%へと上昇すべきなのだし、長期的に成長率が1%まで落ちるならば期待される富はGDPの800%へと押し上げられるはずなのだ。
 これが「法則」であろうとなかろうと、大事な点は、成長が低くなれば富のより高い集中が起きるだろう、ということだ。
 ピケティ氏の物語の中では、大規模な生産性の向上や人口増に由来する急速な成長は、<貧富差の>経済的収斂に向けて働く力なのだ。
 <そのような場合、>その前からの(prior)富は毎年発生する新しい所得に対して少ない経済的かつ政治的な影しか落とさないのだ。
 <ちなみに、>人口増は、経済成長の重要な(critical)要素であって、それでもって、1700年から2012年の間の全球的な平均的GDP成長の約半分を説明できる。・・・
 <このところの、増加から減少へと>転倒してしまった諸人口増加率は、富の諸集中を、ピケティ氏の推計では、ヴィクトリア朝時代の諸水準へと引き戻した。・・・
 <ピケティの指摘であるところの、このように、>成長率を超える収益率が維持される、というのは非現実的に聞こえるかもしれない。
 資本が増えれば、収益は低くなるはずではないか、と。
 <例えば、>百万台目の産業用ロボットは百台目のものよりも生産への寄与分は少ないはずだ。
 ところが、いささか驚きだが、・・・<実際、ピケティが指摘する通り、>資本収益率は、長期にわたって瞠目すべきほど一定なのだ。
 テクノロジーに部分的には<その>責任がある。
 イノヴェーション、そして、一人当たり産出額の増大、が、縮小する諸人口がGDP成長率をゼロ近くにまで減少させた場合でも、<なお、>投資の諸機会を創造するからだ。
 新しいテクノロジーは、人間の勤労者達を諸機械で代替させることをより容易にもする。
 それが、資本をして国民所得のより大きな割合を飲み込むことを可能にし、資本の収益を上昇させるわけだ。
 <今や、>自動化の新しい加速(burst)の只中において、富の諸集中、そして不平等は前例のない高みに到達しうるのであって、極めて19世紀的な<貧富の差の>問題が、現代的色彩(twist)を帯びつつ再来しつつある。」(F)
(続く)