太田述正コラム#6769(2014.2.20)
<江戸時代における外国人の日本論(その1)>(2014.6.7公開)
1 始めに
「資本主義と不平等」シリーズの最中ですが、昨日、たまたま、中共のネチズンの日本礼賛投稿についての記事を何本か目にしたことから、表記のシリーズを挿入することを思い立ちました。
これは、次の東京オフ会での「講演」の準備も兼ねています。
その眼目は、外国人による日本論を人間主義の観点から解析することです。
さて、私は、かねてより人民網が日本礼賛キャンペーンを続けていることに注意を喚起してきたところ、冒頭で言及した何本かの記事のさわりの部分は以下の通りです。
「・・・<日本で>喫茶店で一休みした時、ほかの客が自分のバッグや財布、カメラなどを座席に置いたまま、カウンターに行って注文していた。彼らは自分の物がなくなったらどうしようと思わないんだろうか? 私は不思議に感じた。
食べたり飲んだりし終わると、客は自分でテーブルを片付け、食器などを指定の場所に下げる。店の人が片付けに来る必要はない。・・・」
http://www.xinhua.jp/rss/373456/
「・・・中国では、輸入品というだけで良い、信頼できるという感覚がある。それが日本に来てみたら、どんなものでも「日本産」が良くて、高価なのだ。輸入品に対して日本人は常に疑いの目を持っているため、外国ブランドや輸入品は値段が安くなっている。・・・
日本の企業と消費者が長きにわたって築いた信頼関係が、自国ブランドを生んだのだ。企業も市民の期待にしっかり応えている。・・・
http://www.xinhua.jp/socioeconomy/photonews/373331/
「・・・日本人はとても礼儀正しく、清潔で、教養があり、みんな自分の考えを持っていると感じたという。そして、日本人について、生活に対する要求は決して高くなく、たいがいは工場内の食堂でご飯を食べていた・・・。
日本については、料理がおいしく、日本語は美しく、女性は温和かつ従順で、日本車は経済的で、インテリアや収納管理は合理的で、マンガは面白くと感じる。また、街にはちりひとつ落ちていないし、日本の製品は精巧にできているし、ゲームも面白いため、日本を嫌う理由が本当に見つからない・・・」
http://www.xinhua.jp/socioeconomy/economic_exchange/373389/
現在の日本は、私の言うところの、平安時代、江戸時代に次ぐ第三次縄文モードの時代であるわけですが、日本と最もおつきあいの歴史が長い支那の人々が、日本の人間主義文明の素晴らしさに気付くのがかくも遅れたのはどうしてなのか、という疑問は堪えることにするとして、現在の中共当局の日本文明化戦略と、中共国民の(少なくともかなり多くの部分の)慕日の念とが相互依存・相互強化関係にあることが、ここからも見て取れるのではないでしょうか。
2 安土桃山時代
残念ながら、外国人による、第一次縄文モード時代である、平安時代についての参照に値するような見聞録が存在しないので、江戸時代、及び、江戸時代の様相をいまだ強く残していた明治時代初期の日本についての外国人による見聞録を、適宜参照しつつ、話を進めていくことにしましょう。
その前に、江戸時代直前の戦国時代末期たる安土桃山時代の外国人による見聞録として最も有名な、ルイス・フロイスの『日本史』中の一つの記述に対する、日本の戦後知識人の一人による、噴飯物の自虐的解説をご紹介し、他山の石にしたいと思います。
ちなみに、フロイス(1532~97年)は、「リスボンに生まれる。1541年、9歳でポルトガルの宮廷に仕え、1548年、16歳でイエズス会に入会した。同年、当時のインド経営の中心地であったゴアへ赴き、そこで養成を受ける。・・・1563年・・・31歳で・・・日本での布教活動を開始」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%B9
した、という人物です。
このフロイスは、その『日本史』の中で、「ヨーロッパでは、顔の化粧品や美顔料がはっきりと見えるようでは、不手際とされている。日本の女性は白粉を重ねる程、一層優美だと思っている。」という趣旨のことを記している
http://www.nichibun-g.co.jp/magazine/history/028.html
のですが、これについて、筑波大学名誉教授の大濱徹也<(注1)>は、次のように「解説」しています。
(注1)「1937年生まれ。1961年、東京教育大学文学部日本史学科卒業。文学博士。女子学院、中京大学法学部、筑波大学(歴史・人類学系)を経て、現在。著作:『乃木希典』(1967)、『明治キリスト教会史の研究』(1979)、『講談日本通史』(2005)など。」(典拠:同上)
「日本女性の化粧法は、白粉を厚くぬり、目と口を小さく描きます。それは、喜怒哀楽が表情に表れるのを無作法、「はしたない」行為とみなしたことによります。幕末日本に幽閉されたロシア人ゴロウニンは婦人の無表情な容貌を「死人」のようだと述べていますが、武家などの上流婦人の化粧法は「死化粧」といわれるものでした。それは、白粉を厚く塗り、口紅を挿した唇が笹色となったことによります。この「笹色紅」は、無表情な「死化粧」を演出し、武家婦人のたしなみとみなされていました。
その一方、元禄頃からは、白粉など塗らないで、紅を挿すだけの町娘が登場します。こうした町娘の「素化粧」は、浮世絵に描かれましたが、「蓮っ葉女」とみなされたのです。いわば「死化粧」が物語る表情やしぐさ、化粧作法には、人欲の否定を是となし、修養を説く儒教的モラルに囚われた日本人の身体観が直裁に読みとれます。・・・
この心身を密封してきた日本文化の構造こそは、西洋人のみならず外国人が「顔のない日本人」と揶揄し、日本人の無表情が再々話題とされてきた根にある世界です。・・・」(典拠:同上)
当時を含め、日本は、儒教の影響など、支那や朝鮮半島のような意味でまともに受けたことがないというのに、大濱は何を言っているのだ、という点を含め、つっこみどころが満載なのですが、ここでは、基本的に白粉の話だけにとどめて十分でしょう。
下掲のように、白粉を塗るというのは、日本<(注2)>のみならず、支那や朝鮮半島はもとより、古代エジプト、古典ギリシャ、及び古代ローマにおいても一般的な化粧法だったのであり、理由は詮索しませんでしたが、たまたま、地理的な意味での欧州やロシアではそのような化粧法が廃れていただけである、という、ほんの少し調べれば明らかになる史実から大濱は目を逸らせています。
(注2)「日本の歴史をふり帰ってみると、『古事記』『日本書紀』などの記述や、古墳時代の埴輪の顔色彩色から赤色顔料を顔に塗る風習があったことがわかる。原始的な化粧から美意識にもとづいた化粧へ発展したのは、6世紀後半、大陸や半島文化の輸入とともに、紅、白粉などの化粧品を知ってからであろう。」
http://www.jcia.org/n/pub/info/a/
「洋の東西を問わず白粉≪おしろい≫の歴史は非常に古く、古代人共通の化粧料であったといわれます。
古代エジプトの女子は鉛白質≪えんぱくしつ≫の白粉を用いたと伝えられています。
ギリシャにおいても古代ギリシャの喜劇作家のアリストファネスや著作家であり軍人だったクセノフォンらが当時の婦人の厚化粧を嘆いたといわれるので、恐らくエジプト流の濃厚な化粧法の影響をうけたことが想像されます。
ローマの女子<も>、鉛白<を>使用<するものでした。>・・・
この頃の照明は橙油による明かりだったので、しかも宮殿などは薄暗いので、より白くしないと顔が引き立たない、ということで、何重にも塗る厚化粧になったといわれています。」
http://kesyounavi.com/?p=233
ですから、白粉という化粧法をとらえて、死装束などと形容するのはナンセンスなのであり、そんなことと、日本の女性(や男性)の言動が抑制的であることや、日本人が人欲の否定を是となし修養を説くこととは何の関係もないのです。
このような先入観を拭って素直に考えれば、言動が抑制的であったり、(もちろん儒教の影響などでは全くないところの)人欲の否定を是となし修養を説くことは、日本人の欠陥どころか長所であることがすぐ分かるのであって、大濱がいかに歪んだ暴論を吐いているかは明らかでしょう。
(続く)
江戸時代における外国人の日本論(その1)
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