太田述正コラム#6773(2014.2.22)
<資本主義と不平等(その7)>(2014.6.9公開)
 (5)経済学批判
 「私の見解では、ピケティ氏が最も強く伝えていることは、経済学は、かつて分配の問題に中心的な関心を有していたという事実だ。
 19世紀においては、その問題を無視することは、およそ不可能だったのだ。・・・
 マルクスのもともとの資本主義批判は、それが冴えない成長しかもたらさないことではなかった。
 それは、亢進する富の集中は政治的に維持することは不可能だということだったのだ。
 究極的には、我々のうちで市場制度を維持したい者は、この種の動態と取り組む必要があるのだ。」(E)
 「ピケティは、前の著作の『フランスにおける上流階級の収入(Les hauts revenus en France)』の中で、クズネッツの(不平等が低い所得諸水準では増加し、中くらいの所得あたりで頂点に達し、国が富んでくると減少するという)逆Uの形をした所得不平等曲線を退ける。・・・
 ついでに言えば、クズネッツは、十分な経験的証拠を用いず、或いは、極めて少ないデータ要素群(data points)<(注14)>から余りにも多くを読み取ったり、「特殊な期間(el periodo especial)」の精神、及び、冷戦の「優しい(benign)資本主義」という観念の下でつくられた(crafted)ところの、甚だしく楽観的な著作を生み出したりしたことで<ピケティによって>批判された唯一の経済学者ではない。
 (注14)「データ系列のそれぞれの値を『データ要素』とい<う。>」
http://www.nou-college.com/upload/rejeme_85_1.pdf
 資本と労働の変わらない所得割合群というソロー=スワン(Solow-Swann)の成長理論<(注15)>は、賃金交渉は無意味であることを暗に意味(imply)していた。
 (注15)「ロバート・ソロー・・・とスワン・・・は、ほぼ同時に、いわゆる「新古典派成長理論」と呼ばれる理論を発表し・・・た。新古典派成長理論の著しい特徴は、マーケット・メカニズムが働いて、生産要素(資本及び労働)が100%雇用されるように常に調整されている「長期均衡モデル」をベースにしている<点だ。>・・・<彼らは、>資本と労働の代替性を認めた生産関数を仮定し<ている。>」
http://homepage1.nifty.com/gujyo-economic-res/macro.files/solow.htm
 ソロー(1924年~)は、ハーヴァード学士、修士、博士。ノーベル経済学賞受賞。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AD%E3%83%BC
 ゲーリー・ベッカー(Gary Becker)の人的資本<(注16)>の観念は、「勤労(earned)」所得と「不労(unearned income)」所得の古典的な区別を不明瞭にしてしまった。
 (注16)「アダム・スミスは道具や器具、建物、土地とともに、固定資本の1つとしてヒューマン・キャピタルをあげている。・・・ベッカーによれば、ヒューマン・キャピタルは工場と同じ「物理的な生産手段」であり、また訓練や教育、医学治療といった形の投資が可能なものである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%94%E3%82%BF%E3%83%AB
 ベッカー(1930年~)はプリンストン大学士、シカゴ大修士、博士。ノーベル経済学賞受賞。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC
 そして、人生の終焉時に最適なゼロ資産群になるというフランコ・モディリアーニ(Franco Modigliani)の(「一次元の(unidimensional)・・・」のライフサイクル理論<(注17)>は、人々は通例大きな相続財産群を残すことから、明らかに間違っている。
 (注17)「一生における所得の変化の一部は予想可能であり、消費者は貯蓄や借入を通して生涯にわたる消費を平準化させる<とする。>」
http://blog.livedoor.jp/umaaji25/tag/%E3%83%A2%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8B
 モディリアーニ(1918~2003年)は、イタリア生まれでユダヤ系。フランス経由で渡米し米国に帰化。New School for Social Researchで博士号(Doctorate of Social Science)取得。ノーベル経済学賞受賞。
http://en.wikipedia.org/wiki/Franco_Modigliani
 ピケティが仄めかすように、これらの諸理論をとりわけ魅力的なものにしたことに関しては、若干の政治的底流があった。
 すなわち、要素の<それぞれ受け取る>割合が変わらないことは分配の論点の棚上げをもたらしたし、人的資本は「<「人的資本」家ではあれ>資本家達たる」勤労者達(“capitalists” workers)と財産所有者達とを同じ立場に立たせたし、ライフサイクル理論は、我々が相続した富について心配するには及ばない、ということを暗に意味したのだ。
 そして、誰かが、これらの諸理論を、ばらばらにではなく、一緒に考えるならば、その全てが極めて楽観的な後光を帯びているように見え、それは、今日の時代精神(Zeitgeist)が何たるか<を考えれば、それ>とは恐らく背馳することだろう。
 だからと言って、必ずしもこれらの諸理論が間違っているということにはならないけれど、リカードと穀物諸法(Corn Laws)以来、全ての成功を収めた経済諸理論には、<その時に>流行っている諸論点と時代時代の精神とを反映する傾向があることをピケティが強調するのは正しい、と私は思う。
 実際、このことから、ピケティの理論は今日受け入れられるかどうかの点で有利であると言えるのかもしれないが、今世紀全体において、また、その後においてもそうあり続けるかどうかは、誰にも分からない。・・・」(C)
→要するに、ピケティは、米国を中心とする現在の経済学が市場原理主義的であって堕落している、と指摘しているわけであり、この点は私も全面的に同意です。
 私が、米国の経済学者の間で盥回しされているところの、ノーベル経済学賞の停止ないし廃止を唱えている所以です。
 なお、私の能力と時間に限りがあるのと、コラムがいたずらに難解かつ冗長になることを回避するため、登場した経済学者達やその経済諸理論について、詳しい説明を省いたことをお断りしておきます。(太田)
 (続く)