太田述正コラム#6777(2014.2.24)
<江戸時代における外国人の日本論(その2)>(2014.6.11公開)
3 江戸時代
(1)中期
江戸時代初期に関しては、ドイツ人のエンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer。1651~16)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%AB
による、1691年と92年の2度の江戸参府の旅行記である『日本誌』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%8C
http://www.nak.co.jp/wp/?p=6824
がありますが、鎖国や天皇と将軍の並存が紹介されている点は特筆されるべきであるし、まだ殺伐としていた当時の様子も窺えるものの、紹介するには値しないと思いました。
江戸時代の外国人による日本論の白眉と言えば、中期のカール・ツンベルク(ツュンベリー)の『江戸参府随行記』でしょう。
その翻訳が、1994年に平凡社東洋文庫の一冊となって読むことができます。
ちなみに、ツンベルク(ツュンベリー、或いはトゥーンベリ。Carl Peter Thunberg。1743~1828年)は、「スウェーデンの植物学者、医学者。・・・日本植物学の基礎をつくる。・・・スウェーデン・・・に生まれる。 ウプサラ大学のカール・フォン・リンネに師事して植物学、医学を修めた。フランス留学を経て、1771年オランダ東インド会社に入社し、ケープタウン、セイロン、ジャワを経て、1775年・・・8月にオランダ商館付医師として出島に赴任した。翌1776年4月、商館長に従って江戸参府を果たし徳川家治に謁見した。・・・わずかな江戸滞在期間中に、吉雄耕牛、桂川甫周、中川淳庵らの蘭学者を指導した。1776年、在日1年で出島を去り帰国し、1781年、ウプサラ大学の[薬学・自然哲学教授]に就任した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%84%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF
http://en.wikipedia.org/wiki/Carl_Peter_Thunberg ([]内)
という人物です。
リンネ(1707~78年)の学者としての偉大さについては説明するまでもないでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%8D
要するに、ツンベルクは本格的な学者であった、ということです。
以下の引用は、
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/edo_sanpu.htm
に掲げられている、上記訳本の抜粋から更に抜粋したものであることをお断りしておきます。
イ 総論
「地球上の三大部分に居住する民族のなかで、日本人は第一級の民族に値し、ヨーロッパ人に比肩するものである。・・・その国民性の随所にみられる堅実さ、法の執行や職務の遂行にみられる不変性、有益さを追求しかつ促進しようという国民のたゆまざる熱意、そして百を超すその他の事柄に関し、我々は驚嘆せざるを得ない。・・・また法の執行は力に訴えることなく、かつその人物の身上に関係なく行われるということ、政府は独裁的でもなく、また情実に傾かないこと、・・・飢餓と飢饉はほとんど知られておらず、あってもごく稀であること、等々、これらすべては信じがたいほどであり、多くの(ヨーロッパの)人々にとっては理解にさえ苦しむほどであるが、これはまさしく事実であり、最大の注目をひくに値する。私は日本国民について、あるがままを記述するようにつとめ、おおげさにその長所をほめたり、ことさらその欠点をあげつらったりはしなかった。」
→額面通り受け取ってよいと思います。
ツンベルクの驚嘆が、直、我々にもつたわってきますね。(太田)
ロ 田畑
「その国のきれいさと快適さにおいて、かつてこんなにも気持ち良い旅ができたのはオランダ以外にはなかった。また人口の豊かさ、よく開墾された土地の様子は、言葉では言い尽くせないほどである。国中見渡す限り、道の両側には肥沃な田畑以外の何物もない・・・
(大阪から京都への道の感想)私はここで、ほとんど種蒔きを終えていた耕地に一本の雑草すら見つけることができなかった。それはどの地方でも同様であった。・・・農夫がすべての雑草を入念に摘みとっているのである。雑草と同様に柵もまたこの国ではほとんど見られ<ない>・・・。」
→素晴らしい国ではありませんか。(太田)
ハ 道路
「この国の道路は一年中良好な状態であり、広く、かつ排水の溝をそなえている。・・・上りの旅をする者は左側を、下りの旅をする者は(上りから見て)右側を行く。つまり旅人がすれ違うさいに、一方がもう一方を不安がらせたり、邪魔したり、または害を与えたりすることがないよう、配慮が及んでいるのである。このような状況は、本来は開化されているヨーロッパでより必要なものであろう。ヨーロッパでは道を旅する人は行儀をわきまえず、気配りを欠くことがしばしばある。・・・さらに道路をもっと快適にするために、道の両側に灌木がよく植えられている・・・
里程を示す杭が至る所に立てられ、どれほどの距離を旅したかを示すのみならず、道がどのように続いているかを記している。この種の杭は道路の分岐点にも立っており、旅する者がそう道に迷うようなことはない。
このような状況に、私は驚嘆の眼を瞠った。」
→人や物資を運ぶ幹線道路の整備がいかに行き届いていたか、分かりますね。(太田)
ニ 農民
「日本では農民が最も有益なる市民とみなされている。このような国では農作物についての報酬や奨励は必要ない。そして日本の農民は、他の国々で農業の発達を今も昔も妨げているさまざまな強制に苦しめられるようなことはない。農民が作物で納める年貢は、たしかに非常<に>大きい。しかしとにかく彼らはスウェーデンの荘園主に比べれば、自由に自分の土地を使える。(スウェーデンの農民が農業以外の苦役に従事しなければならない例をいくつかひいて)日本の農民は、こうしたこと一切から解放されている。彼らは騎兵や兵隊の生活と装備のために生じる障害や困難については、まったく知らない。そんなことを心配する必要は一切ないのだ・・・
農民の根気よい草むしりによって、畑にはまったく雑草がはびこる余地はなく、炯眼なる植物学者ですら農作物の間に未知の草を一本たりとも発見できないのである・・・。」
→少なくとも、江戸時代の政治経済制度は、同時代の欧州文明諸国より「近代的」であったと言えそうです。(太田)
ホ 女子供
「日本は一夫一婦制である。また中国のように夫人を家に閉じこめておくようなことはなく、男性と同席したり自由に外出することができる・・・。・・・
この国ではどこでも・・・子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも船でも子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった。」
→(男女平等どころか、実は女性優位であり、財布は女性が握っている、とまではさすがにツンベルクも想像できなかったようですが、)女性差別がなく、子供が大切にされている点は、同時代の欧州文明諸国はもとより、イギリスさえも及ばなかった、と言ってよいのではないでしょうか。(太田)
ヘ 豊かさ
「こんなにも人口の多い国でありながら、どこにも生活困窮者や乞食はほとんどいない。・・・
日本には外国人が有するその他の物――食物やら衣服やら便利さゆえに必要な他のすべての物――はあり余るほどにあるということは、既に述べたことから十分にお分かりいただけよう。そして他のほとんどの国々において、しばしば多かれ少なかれ、その年の凶作や深刻な飢饉が嘆かれている時でも、人口の多いのにもかかわらず、日本で同じようなことがあったという話はほとんど聞かない・・・
国内の商取引は繁栄をきわめている。そして関税により制限されたり、多くの特殊な地域間での輸送が断絶されるようなことはなく、すべての点で自由に行われている。どの港も大小の船舶で埋まり、街道は旅人や商品の運搬でひしめき、どの商店も国の隅々から集まる商品でいっぱいである・・・。」
→どうやら、豊かさにおいても、当時の日本は、イギリスにはともかく、同時代の欧州文明諸国を凌駕していたようです。(太田)
(続く)
江戸時代における外国人の日本論(その2)
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