太田述正コラム#6791(2014.3.3)
<江戸時代における外国人の日本論(その8)>(2014.6.18公開)
 次は、アルジャーノン・ミットフォード(Algernon Bertram Freeman-Mitford, 1st Baron Redesdale。1837~1916年)です。
 彼は、イギリスの貴族、郷紳の家系に生まれ、イートン校、オックスフォード大卒で、後に下院、そして男爵になってからは上院の議員を務めることになるエリートであるところ、日本在勤は1866~1870年で、幕末と明治初期にまたがっています
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89
http://vaccine.sblo.jp/article/1187076.html
が、日本に係る著作を上梓したのは明治期であることから、こちらに持ってきました。(注9)
 (注9)ミットフォードやアーネスト・サトウが仕えた、ハリー・S・パークス(Harry Smith Parkes。1828~85年)は、オールコックの後任の第二代駐日英国公使で、日本在勤は、1865~83年。
 幼少期をマカオで過ごし、現地採用で英外務省入りした叩き上げ外交官であり、日本時代には、「公使館員に対し公使館の実務を午前中で終え、午後は日本を研究するように推奨していた。
 1869年に『日本紙調査報告』を作成、本国に報告している。パークスおよび公使館員が調査したもので、412種類の和紙が収集された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B9
 最も記憶されるべき彼の言葉は、「いうまでもないことだが、つねに最大限の注意と慎重さをもって行動し、いかなる党派にたいしても不公平な印象をあたえないよう、その言動を慎むことが大切である・・・ イギリス政府は、この国の統一と安定の回復を切望しているが、同時にいかなる制度上の変革も、日本人自身の手でなしとげられるべきである」(1867年(慶応3年)11月28日付、パークス公使からスタンレー外相あて報告書より)
http://tafu.iza.ne.jp/blog/entry/1230486/
だろう。
 フランスのロッシュ等と比較するまでもなく、当時の英国の外交官の質の高さは突出している。
→アーネスト・サトウ(Ernest Mason S atow。1843~1929年)は、日本在勤は1862~83年(但し、その間二度賜暇帰国している)と駐日公使としての1895~1900年に及んでおり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%88%E3%82%A6
彼も取り上げたかったのですが、ネット上で、彼による(日本情勢論はともかくとして、)日本論めいたものを見出せなかったので諦めました。
 なお、このシリーズで紹介する各種日本論については、その多くを私自身、訳本や要訳本で読んだことがあるところ、時間の節約のため、収集対象をネット上のものに限定したことをお断りしておきます。(太田)
 さて、ミットフォードには、日本への言及を含む回顧録と日本についての本を残しています。
 『英国外交官の見た幕末維新』は、ミットフォードの回想録[(1915年)]の中の日本に関する部分を邦訳して1冊にまとめたものです。
http://d.hatena.ne.jp/delunnehr/20070127/p1
 その中には、以下のようなくだりがあります。
 「公卿の中のある者は、豊かな富もなく、目も眩ますようなけばけばしさもなかったが、想像力を掻き立てられるものは全て備わっていた。
 彼らは簡素な家に住み、貧乏と言ってよいほどの質素な生活を送っていたが、周りには後光が差していた。
 彼らの前では、地方の豪族や、大きな城に住む貴族の豪華絢爛の生活や、きらびらやかな軍隊も色あせて見えた。」
http://ameblo.jp/vitan/entry-11366868248.html ([]内も)
→「地方の豪族や、大きな城に住む貴族」が何を指しているのか必ずしも明らかではありませんが、幕末に「豪華絢爛の生活」を送っていた者がいたとは思えません。
 大商人は相対的には金持ちだったでしょうし、権力を握っていた諸大名は「大きな城」に住んでいたでしょうが、それは、良く知られているように、江戸時代の日本が、富(商人)と権力(武士)と権威(公卿)を分離していたからにほかなりません。
 天皇と天皇を取り囲む公卿達に「後光が差していた」のは、彼らが権威を体現していたからです。
 しかし、そのような後光がミッドフォードのような外国人にも見えたとすれば、それは、天皇や公卿が、その権威にあいふさわしい研鑽を自ら積み、見識も持っていたからこそでしょう。(太田)
 『ミットフォード日本日記(The Garter Mission to Japan)』は、彼が、日本を去ってから40年後の1906年(明治39年)に、英国のエドワード7世が明治天皇にガーター勲章を授与するために甥のコンノート殿下を派遣した際、その首席随員として、1ヶ月間、東京から鹿児島まで各地を訪れた時のことをまとめたものです。
 これには、以下のようなことが書かれています。
 「私の日本滞在中にいろいろな種類の多くの日本人と話をしたが、さきの日露戦争の輝かしい勝利を自慢するかのような発言を、一度も耳にしなかったことである。戦争に導かれた状況と戦争そのものおよびその結果について、全く自慢をせずに落ち着いて冷静に話をするのが、新しい日本の人々の目立った特徴であり、それは全世界の人々の模範となるものであった。このような謙譲の精神をもって、かかる偉大な勝利が受け入れられたことはいまだにその例を見ない・・・
→日本における狭義の人間主義(の一側面)への賛辞ですね。(太田)
 私は日本の農家の家屋敷ほど絵のように美しく、居心地よさそうな住まいは世界のどこの国にも見られないのではないかと思っている。彼らの小さい可愛い家は、ちょっとした茂みに囲まれて山際に寄り添うように建てられていることもあり、あるいは一面に水を張った田んぼから数フィートしか高くない小さな丘の上に建てられていることもある。
 それはほんのもろい造りで、いうまでもなく都会の家と同じに木と紙でできている。主な相違は屋根にあって、それは瓦で葺く代わりに濃い茶色の藁で葺いた屋根で、冬は暖かく夏は涼しく、季節が来れば青色のあやめが美しい花を咲かせるのである。家の周りには竹の垣がめぐり、椿やその他の常緑樹が、その内側に植えてある。小さな庭を鶏が尾を立てて歩き回り、農家の主婦が洗濯物を干したり、餅をついたり、野菜などを洗ったりして忙しげに家事をしているそばで、上の娘は赤ん坊のお守りをしている。
 すぐ近くに鳥居があるが、それは農耕を司(つかさど)る神様であるお稲荷様を祀った神社の参道へ通じる簡素な門で、神社には掛け額が掲げられ、お供の二匹の狐の像が両側に置かれている。それは本当に素朴で穢れのない、しかも満ち足りた生活で、昨今、世間でよく話題になる「簡易生活」の、まさに見本であり、正直な労働によって得られた満足を示す一幅の絵である。
 彼らの粗末な家と同様に、その稼ぎもわずかであったが、それで十分で、何の不平もなかった。男も女も笑みを湛え、道行く外国人を親しげに歓迎してくれた・・・
→日本における広義の人間主義への見事な賛辞であると思います。(太田)
 日本人の知覚力は我々に比べると、より繊細で、生来、我々より鋭いようだ。そのうえ、それは最上の鋼鉄のように、数百年にもわたる独特の訓練によって鍛えられているのだ。・・・
 世界中で一番鋭い批評家である見物人、すなわち日本人の厳しい目・・・
→広狭の人間主義が日本人の美等に対するずば抜けた鑑識眼を培っている、というわけです。(太田)
 我々の日本滞在中に、・・・柔術の試合を何度も見たが、それらは確かに一驚に値するものであった。女性が大の男を、まるで赤ん坊のように易々と投げるのは素晴らしい見ものである。さらに素晴らしいのは、女性たちにこういう激しい練習が課されていることである。・・・
→人間主義社会の日本が、本来的な男女平等社会であることにも、慧眼なミットフォードは気付いています。(太田)
 武士道精神の育成が図られ、その気運は最高潮に達していた。何よりも義務が優先すべきであり、それは祖国に対する義務である。義務を守ることは生命より大事なことだ。広瀬中佐の英雄的行為によって鼓舞された、この思想が世間を支配し、日本には広瀬と同じような英雄が数多く輩出した。
 これを愛国主義や軍国主義と呼んで冷笑する者もあるだろう。冷笑するなら、そのままにしておけばよい。この精神こそ日本の国力を築き上げ、他の国々に比べて一段と頭角を現す基となったのである。これによって各人が自己の最善を尽くす決意が育まれた。すなわち各人が、その持てる能力を最大に発揮し、かつ向上させ、もし国のために必要であれば、どんな犠牲も厭わず彼の受け継いだ最高の能力を提供できるようにするのだ。才能は決して宝の持ち腐れにしてはならない」
http://snowdrops.blogzine.jp/home/2013/10/post_a13b.html
→ここは、誤読をされかねないこともあり、最後に引用しておきました。
 人間主義社会とは、その構成員が、他者を思いやるがゆえに、他者に奉仕し他者との約束を守る社会であり、「生命」に代えても「祖国に対する義務」を果たし、その祖国を「守る」のは、「愛国主義」でも「軍国主義」でもなく、人間主義の共同体に奉仕し、その共同体を守る、ということなのだ、と我々は受け止めるべきでしょう。
 日本人は、このような思いで日露戦争を戦ったのであり、先の大戦を戦ったのも、全く同じ思いからだったのです。(太田)
(続く)