太田述正コラム#6801(2014.3.8)
<江戸時代における外国人の日本論(その13)>(2014.6.23公開)
次は、ヴェンセスラウ・デ・モラエス (ジュゼ・ジ・ソウザ・ジ・モライシュ=Wenceslau Jose de Sousa de Moraes。1854~1929年)です。
彼は、「ポルトガルの首都リスボンに生まれ<、>海軍<兵?>学校を卒業後、ポルトガル海軍士官として奉職。1889年に初来日。マカオ港務局副司令を経て、外交官となる。1899年に日本に初めてポルトガル領事館が開設されると在神戸副領事として赴任、のち総領事となり、1913年まで勤める。・・・神戸在勤中に芸者おヨネ・・・と出会い、ともに暮らすようになる。1912年にヨネが死没すると、翌1913年に職を辞し引退。ヨネの故郷である徳島市に移住した。ヨネの姪である斎藤コハルと暮らすが、コハルにも先立たれる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%82%B9
という人物です。
以下は、彼の『徳島の盆おどり(内的印象記)』からです。
「死者の霊すなわち魂はどこへ行くのか?日本人のほとんどは仏教教義をはっきりと知らない。日本人はこれを単純化する。死んだ人はすぐに永遠の栄光に入り、「ほとけさん」すなわち聖者になる。「ほとけさん」は生者が自分に寄せてくれるやさしい思いに感謝し、喜んで彼らを保護する。ここから死者崇拝や祖先崇拝が生まれる。・・・
世慣れた人は、仏教と神道行事のいくつかにときに笑うかもしれない。だが、追慕の情を祭祀に変え、死者を神々に変え、墓や仏壇でそのような祭祀を司る日本の家族の単純な素朴さとやさしい熱意を前にすれば、誰もが感動して頭を下げる。老い衰えた日本人が、自然が人間に課す、一見したところ最も厳しい掟である死を前にして穏やかな諦念にひたっていられるのは、死者崇拝のおかげである。・・・
死という恐るべき宿命を前にして、日本人の魂と西洋人の魂の間に横たわる主要な違い・・・。日本人の魂も苦しみから免れているわけではない。しかし、死者崇拝が驚くべき慰撫行為を行う。死者の栄光化を熱心に信じること、家族生活への死者の永遠の参加を信じること、死者の慈悲を信じること、家庭への死者の定期的訪問を信じることは、西洋人には理解できない幸福の広大な地平を現世の生活に切り開くことである。家族の輪を日本人全体、つまり国家に押し広げるならば、すさまじい日本人の愛国心の秘密をある程度理解したことになるであろう」
http://www015.upp.so-net.ne.jp/h-hayashi/D-11.pdf
→日本人の、生きた人間はもちろんのこと、その他の生きとし生けるものすべて、そして、自然との思いやりにみちた交流は、近親者や地域の住民を中心とした死せる人間との思いやりにみちた交流をもまた伴っている、ということです。
「すさまじい日本人の愛国心」は、前にも記したように、この人間主義の共同体を育み守ろうとする、日本人の自然な感情なのです。(太田)
次は、小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン =Patrick Lafcadio Hearn。1850~1904年)です。
彼は、「当時はイギリス領であったレフカダ島(1864年にギリシャに編入)にて、イギリス軍医であったアイルランド人の父・・・と・・・ギリシャ人の母・・・のもとに出生。生地レフカダ島からラフカディオというミドルネームが付いた。父はアイルランド出身でプロテスタント・アングロ・アイリッシュである。・・・1852年、両親とともに父の家があるダブリンに移住し、幼少時代を同地で過ごす<が後に>・・・離婚が成立。以後、ハーンは・・・父方の大叔母・・・に厳格なカトリック文化の中で育てられた。この経験が原因で、少年時代のハーンはキリスト教嫌いになり、ケルト原教のドルイド教に傾倒するようになった。・・・アイルランドの守護聖人・聖パトリックに因んだファーストネームは、・・・キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったといわれる。・・・フランス・イギリスで教育を受けた後、1859年に渡米。・・・20代前半からジャーナリストとして頭角を顕し始め、文芸評論から事件報道まで広範な著述で好評を博す。1890年(明治23年)、<米>国の出版社の通信員として来日。来日後に契約を破棄し、日本で英語教師として教鞭を執るようになり、翌年<日本人と再>婚。・・・1896年・・・ 東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職。<(彼の後任が夏目漱石。)>日本に帰化し「小泉八雲」と名乗る。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B3%89%E5%85%AB%E9%9B%B2
という人物です。
→ハーンは、その自然宗教志向といい、カトリシズムへの嫌悪といい、典型的イギリス人ですね。(彼の父親はプロテスタントなのですから、アイルランド人ではなくイギリス人、と見てよいでしょう。)(太田)
以下は、『知られざる日本の面影(日本瞥見記)』からです。
「将来まさに来ようとしている変革が、この国の道義上の衰退をまねくことは避けがたいように思われる。西欧諸国を相手にして、産業の上で大きな競争をしなければならないということになれば、結局日本はあらゆる悪徳を自然に育成していかなければなるまい。
昔の日本が、今よりもどんなに輝かしいどんなに美しい世界に見えたかを、日本は思い出すであろう。古風な忍耐と自己犠牲、むかしの礼節、古い信仰のもつ深い人間的な詩情。日本はこれから多くのものを見て驚くだろうが、同時に残念に思うことも多かろう。」
http://erdrick.web.fc2.com/
また、以下は、熊本の第五高等中学校英語教師時代(1891~93年)に同校で行った『The Future of the Far East(極東の将来)』と題する講演からです。
「将来は西洋にではなく極東に味方すると私は信じる。少なくとも中国に関する限りそうだと信じる。日本の場合には、危険性があると考える。古来からの、簡素な、健全な、自然な、節度ある、誠実な生活方法を捨て去る危険性がある。私は日本がその質素さを保ち続ける間は強いが、もし舶来の贅沢・・・志向を取り入れるとすれば衰退して行くと考える。極東の賢人である孔子、孟子、ブッダは誰も皆、「贅沢(ぜいたく)を避けて、ごく普通の楽しみと知的娯楽に必要なもので満足することこそ、民の強さと幸せのために重要である」と説いた。その考えはまた今日の西洋の思想家の考えでもある。」
http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/bungaku/yakumo3.html
→前出のチェンバレン・・ハーンとも交友があった(ハーンのウィキペディア前掲)・・は、ただ単に日本人の美意識の劣化の可能性に警鐘を鳴らしただけですが、ハーンによる懸念の表明はより包括的かつ深刻なものです。
後で、このハーンの指摘が杞憂に終わったことを明らかにするつもりですが、チェンバレンは、ハーンは幻想の日本を描き、最後は日本に幻滅したという指摘を行った(ハーンのウィキペディア前掲)ところ、この指摘は当たっているのではないでしょうか。(太田)
次は、ハーバート・ジョージ・ポンティング(Herbert George Ponting。1870~1935年)です。
彼は、英ウエリントン・カレッジ卒の「イギリスの職業写真家である。《1901年(明治34年)~1902年(明治35年)来日。》彼は・・・外国人として初めて日本陸軍に従軍し、日露戦争に参加<した。>・・・1910年から1913年にかけてのロバート・スコット の南極探検隊の写真家、映画撮影技師であったことで知られる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0 (下の[]内も)
http://ameblo.jp/sakurayozora/entry-10447149471.html
という人物です。
以下は、『英国人写真家のみた明治日本 この世の楽園・日本』([1910年])からです。
「プラットホームに立っていると、そこにロシア軍の捕虜を満載した列車が到着した。乗っていた捕虜の全員が戦争から開放された喜びで、大声で叫んだり歌を歌ったりしていた。・・・反対の方向から別の列車が入って来た。それは日本の兵士を満載した列車で、兵士達は前線に行く喜びで同じように歌を歌っていた。・・・
列車が止まると日本兵は列車から飛び出して、不運?な捕虜のところへ駆け寄り、煙草や持っていたあらゆる食物を惜しみなく分かち与えた。一方ロシア兵は親切な敵兵の手を固く握り締め、その頬にキスしようとする者さえいた。私が今日まで目撃した中でも、最も人間味溢れた感動的な場面であった。・・・
松山で、ロシア兵(捕虜)たちは優しい日本の看護婦に限りない賞賛を捧げた。寝たきりの患者が可愛らしい守護天使の動作の一つ一つを目で追うその様子は、明瞭で単純な事実を物語っていた。
何人かの勇士が病床を離れるまでに、彼を倒した弾丸よりもずっと深く、恋の矢が彼の胸に突き刺さっていたのである。ロシア兵が先頃の戦争で経験したように、過去のすべての歴史において、敵と戦った兵士がこれほど親切で寛大な敵に巡り合ったことは一度もなかったであろう。それと同時に、どこの国の婦人でも、日本の婦人ほど気高く優しい役割を演じたことはなかったのではあるまいか。」
http://ameblo.jp/sakurayozora/entry-10447149471.html 上掲
→これは国際法がどうとかこうとか、などということとは全く無関係な、日本人の男女を問わぬ人間主義的言動の胸を打つ描写です。(太田)
(続く)
江戸時代における外国人の日本論(その13)
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