太田述正コラム#6821(2014.3.18)
<網野史観と第一次弥生モード(その3)>(2014.7.3公開)
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<脚注:城壁都市の不存在>
 13世紀まで、日本に基本的に散村しかなかったことの背景に日本の治安のよさを指摘したところだが、治安のよさを裏付けるのが、日本に基本的に城郭都市が存在しなかったことだ。
 「日本には本格的な都市が出現する以前の弥生時代に、既に互いに割拠、抗争するクニの防衛拠点として環濠集落が発達していたが、これは統一国家の形成へと向かう中で姿を消した。
→弥生時代に、渡来人が、環濠集落を持ち込んだものの、平和な日本では、「防衛拠点」の必要性が低かったことから、このような集落は次第に姿を消して行った、と考えられる。(太田)
 やがて中央集権的な律令国家が建設されていく中で、中国の都城制の概念が輸入され、国都としての平安京や平城京などは城門や望楼を設け、囲郭都市の体をなしていた。だが、これらの都城<に>戦時の防衛に耐えられる城壁などは築かれなかった。
→当時の日本政府は、できるだけ当時の支那のマネをしようとしたにもかかわらず、都に羅生門等の門/望楼が象徴的に設けられはしたけれど、城壁は設けられなかった(!)というわけだ。(太田)
 中世になると博多や堺では都市の周囲を土塁と堀で囲み(環濠都市)、また各地で土塁と堀で囲まれた集落も出現するようになる(環濠集落)。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E9%83%AD%E9%83%BD%E5%B8%82
→第一次弥生モードの時代に入ると、さすがに、そんな日本にも、一部において、一時、城壁都市めいたものが出現するに至った、ということだ。(太田)
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 「12世紀から13世紀になると、中国(宋)から、大量の銭が流入する。これらが、日本で貨幣として流通し始める。最初は、東日本で(13世紀前半)、少し遅れて、西日本で(13世紀後半)。こうした時間差が生じたのは、西日本では、米がかなり有効に貨幣として機能していたからであろう。・・・
 宋銭が日本列島で流通したということは、列島の中での交易が、鋳貨を必要とするほどに複雑化し、成熟<するに至った>、ということを意味している。・・・
 <それにしても、>日本の古代・中世の支配者は、鋳貨を造ろうとする意欲をほとんど示していない。後醍醐天皇が、銭を鋳造し、紙幣を発行しようともくろんだことが(しかし実現せず)、唯一の例外である。朝廷も幕府も、中国から鋳貨を借りず、自分で貨幣を発行しようとはしなかった。ふしぎなことである。」
 宋銭の大量流入に注目するのは網野であり、貨幣を自ら作ろうとしなかったところの、歴代の日本政府に首かしげているのは大澤ですが、私は、貨幣に対するニーズが生じたのは、日本国内での交易の活発化が原因である、と述べる大澤は、最も肝心なことを忘れている、と思うのです。
 かいつまんでご説明しましょう。
 下掲の典拠から分かるのは、1673年に、三井家の越後屋が、現金売り・・当時は現銀売りだった・・を始める
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%B6%8A
までは、日本には、掛け売りしかなかったらしいことです。
 「三井がやり始めるまで、・・・現金切売り・掛値なしという戦略を誰も思いつかなかった・・・
 江戸時代において大晦日は1年を締め括る収支決算日であり、商人は売掛けした代金を回収して、翌年の商いの資金を確保しなくてはならなかった・・・」
http://president.jp/articles/-/7515?page=5
 そして、上掲の説明から窺えるように、引き続き、江戸時代においては、掛け売りが原則であり続けたらしいのです。
 いや、明治以降においても、恐らくは昭和中期くらいまでは、そうだったのではないでしょうか。
 現在でも、日本の業者間では、後払い、という一種の掛け売りが原則です。
 ところが、お隣の支那では、下掲のように、事情は全く異なっています。
 「中国には掛売りのような信用取引が無かった。そのような心配のような信用のできないことはやらないから、現金取引が基本であった。今でもそうである。」
http://www.catv296.ne.jp/~t-homma/dd051202.htm
 さすがに、欧州では、昔から掛け売りも行われてきたようですが、下掲をご覧ください。
 「ハンザ商人は「外国人に商品を掛け売りする,外国人の商品を掛けで買う」ことは認めていなかった。・・・
 未回収の債務が発生すれば自ら取り立てのために旅行しなければならない・・・し、また往々にして・・・現金ではなく商品による支払いを受け取らねばならない<からだ>・・・」
http://ameblo.jp/sumire93/entry-11667985327.html
 つまり、支那や欧州における事情を踏まえれば、掛け売りが原則である社会というのは、人間相互の信頼感が高い社会であることを意味している、ということになりそうです。
 ということは、日本というのは、世界でも稀なほど、人間相互の信頼感が高い社会らしい、ということを意味します。
 第一次縄文モードの時代において、大澤の言う米、ないし、絹が代用貨幣として使われていた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A8%E5%B9%A3
としても、そんなものをいちいち持参して市に赴いたり、そんなものをいつも家に備蓄しておいて、行商人が訪ねて来た時に、それでもって支払ったりしていた、とは考えにくいでしょう。
 基本的に、掛け売りが行われ、年末に、或いは、米や絹(糸)の収穫期/生産期にまとめて決済していたのではないか、と想像されるのです。
 
 そのためには、帳簿を付けなければならないが、果たして、大昔の日本で、庶民に至るまで、そんな識字力や計算力があったのか、という疑問を提起する人がいるかもしれません。
 あったに違いない、と私は考えています。
 どうしてか?
 現在の日本人の識字力や計算力の高さは、下掲のように、折り紙付きです。
 「OECDは、<昨年、>・・・16歳から65歳までの成人160,000人を対象としたの学力テストを行った<が、>・・・参加国は24カ国<中、>・・・読む理解力と、数学は日本がトップだった。」
http://swissnews.exblog.jp/19795649/
 時代を遡って、江戸時代については、「江戸における・・・1850年頃・・・の就学率は70-86%といわれており、イギリスの主な工業都市で20-25%(1837年)、フランスで1.4%(1793年)、・・・などの外国に比べ就学率が高かった。・・・確実な名簿の残る近江国神崎郡北庄村(現・滋賀県東近江市宮荘町)にあった寺子屋の例では、入門者と人口の比率から、幕末期に村民の91%が寺子屋に入門したと推定され、・・・<その>寺子屋<で>の教育<において>は<、一般に>「読み書き算盤」と呼ばれる基礎的な読み方・習字・算数の習得<が行なわれた>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%AD%90%E5%B1%8B
ことは良く知られています。
 大昔でもある程度そうであったことを推認させるのが、まず、計算力の高さについては、下掲です。
 「日本では奈良時代に九九を練習したと見られる木簡が出土された。九九は貴族の教養として万葉集(759年頃)にも登場した。」
http://www-06.ibm.com/ibm/jp/provision/no36/pdf/36_clumn.pdf
 それは貴族だけの、しかも九九だけの話ではないか、という疑い深い人に対しては、以下のような点に注意を喚起したいと思います。
 すなわち、この万葉集に収録されている短歌等は、629~759年に作られたものであるところ、庶民の作による短歌等も多数収められていることです。
 当時は文字は万葉仮名が用いられていたところ、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86
もとより、短歌等を作ることができたような庶民といえどもその全てが読み書きができたわけではないとしても、そのうち相当数の者はできたのではないか、そうだとすれば、少なくとも、基本的なモノの名称や数くらいは、多くの成人たる庶民は書けたのではないか、当然、九九も彼らの多くが、ある程度できたのではないか、と考えられるのです。
 以上から、私は、日本では、掛け売りが原則であり続けられたため、世界の他の国や社会と比べて、基本的に、通貨代用物を含む、通貨への需要が小さいまま推移した、と想像している次第です。
 そんな日本で、12~13世紀に宋銭が流通し始めたのは、掛け売りだけでは支障をきたすようになったからだ、とお思いになることでしょう。 
 では、果たして、どんな支障が生じたというのでしょうか。
(続く)