太田述正コラム#6825(2014.3.20)
<網野史観と第一次弥生モード(その5)>(2014.7.5公開)
ただし、私の仮説には弱点があります。
掛け売りの帳簿が、一体、何に認(したた)めたられたのか、という点です。
「日本最古の木簡は、640年代までにさかのぼり、この段階で文字使用が珍しくなかったことがうかがわれる。しかし点数が一気に増加するのは672年以降の天武天皇の時代で、文書行政の整備がその背景にある。その物的証拠となる文書木簡は、7世紀後半から奈良時代と平安時代の10世紀までを中心に使われた。・・・
日本に文字が入ってきたとき、中国では既に紙が普及しつつあり、紙と木簡・竹簡が併用されていた。日本もそれを踏襲し、比較的短い文書についてだけ木簡を使った。すべての文書に紙を使わなかったのは、当時まだ紙が高価だったためでもあるが、簡単に壊れない木の耐久性を活用した面もある。・・・
和歌を万葉仮名で記した<木簡も>、7世紀から出ている。・・・
木簡<に文字を>・・・書いたのは全国で貢進物を整えた地方の役人である。・・・
木簡の盛期は8世紀末までで、文書木簡は10世紀より後になると見られなくなる。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E7%B0%A1
上掲からは、第一次縄文モード(平安時代)末期には、紙が普及するに至っていた、とも読めます。
実際、下掲のような事実があります。↓
「11世紀後期ごろから、庶民の文書(田地売券など)にも花押が現れ始めた。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E6%8A%BC
それより以前の11世紀前期にも、下掲のような事実があります。↓
「秦吉子という庶民女性が長元八<西暦1035>年に検非違使<(注4)>庁に提出した<漢文>文書」
http://books.google.co.jp/books?id=AF3BKKwhR2sC&pg=PA227&lpg=PA227&dq=%E5%BA%B6%E6%B0%91%E3%81%AE%E6%96%87%E6%9B%B8&source=bl&ots=7UpZJhkmv0&sig=jypSiXQuiCbm40I9nx_Ev_iI3CU&hl=ja&sa=X&ei=I5YpU5_MA8PskAWE9YBA&ved=0CFUQ6AEwBQ#v=onepage&q=%E5%BA%B6%E6%B0%91%E3%81%AE%E6%96%87%E6%9B%B8&f=false
(注4)「日本の律令制下の令外官の役職である。「非違(非法、違法)を検察する天皇の使者」の意。・・・京都の治安維持と民政を所管した。また、平安時代後期には令制国にも置かれるようになった。・・・平安時代の・・・816年・・・が初見で、その頃に設置されたと考えられている。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E9%9D%9E%E9%81%95%E4%BD%BF
「令制国が成立する前に、土着の豪族である国造(くにのみやつこ)が治める国と、県主(あがたぬし)が治める県(あがた)が並立した段階があった。それに対して、令制国は、中央から派遣された国司が治める国である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A4%E5%88%B6%E5%9B%BD
それどころか、更に遡った10世紀末にも、下掲のような事実があるのです。
「長保元年(西暦999年)の日付が入って<いるところの、>・・・錦重任という庶民男性が書いた嘆願<文>書」
http://non-rolling-dig.hatenadiary.jp/entry/20110407/1302146334
ところが、その一方で、下掲のような記述も目にしたので、悩ましいのです。
「室町時代・・・に入っても<、なお、>和紙<は>貴重品であった・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%B4%99
ただし、掛け売りの帳簿の記載内容は、日付、顧客の名前、商品名、数量、売価、だけでよいので、それぞれを符丁化すれば、それほどの量の紙ないし木簡の類は必要がなかったと思われますし、商人を含め、庶民の間では木簡が引き続き長く使われ、それらが使用後は焚き付けに用いられたために現在まで残されたものがない、という可能性もあるのではないでしょうか。
このあたりのことも、どなたか、解明していただけるとありがたいです。
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<脚注:富山の売薬>
有名な富山の売薬は、江戸時代に生まれたところの、一種の掛け売りである、残置販売方式で売られたが、貨幣の流通量の少なさと掛け売りとの密接な関係がそこからも見えて来る。
「創業当時・・・<の>17世紀終期、・・・地方の一般庶民の日常生活では貨幣の流通が十分ではなかった。貨幣の蓄積が少ない庶民にとって医薬品は家庭に常備することはできず、病気のたびに商業人から買わざるを得なかった。
こうした背景の中で医薬品を前もって預けて必要な時に使ってもらい、代金は後日<、年2回、>支払ってもらう先用後利のシステムは画期的で時代の要請にも合っていた。
配置販売は富山売薬の営業形態となっている。消費者の家庭に予め医薬品を預けておき半年ごとに巡回訪問を行って使用した分の代金を受け取り、さらに新しい品物を預けるシステムである。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E3%81%AE%E5%A3%B2%E8%96%AC
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(続く)
網野史観と第一次弥生モード(その5)
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