太田述正コラム#6839(2014.3.27)
<網野史観と第一次弥生モード(その12)>(2014.7.12公開)
 (3)日本の市場の超近代性?
 鬼頭宏(1947年~)(注17)(コラム#116、6836)は、彼の『人口から読む日本の歴史』を昔読んだ(コラム#116)ことから、私は名前を知っていたのですが、彼の『文明としての江戸システム』については初耳でした。 
 (注17)「慶・・・大・・・経・・・卒業。同大学大学院経済学研究科博士課程満期退学。慶應義塾高等学校教諭、上智大学経済学部助教授を経て・・・教授・・・。専門は日本経済史・歴史人口学。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E9%A0%AD%E5%AE%8F
 この本の中には、下掲のようなことが書かれているようです。
 「世界を見渡しても、近代市場社会へと早期に脱皮することに成功したのは、西洋と日本だけである。・・・<ただし、>西洋は金貸し主導で近代市場が急拡大していったのに対して、日本は国家主導の管理市場という特性を持つ。・・・
→後述するように、いささか雑駁に過ぎる点はさておき、網野に欠如していたところの、このような比較史的なアプローチには好感が持てます。(太田)
 古代市場が生み出される以前、縄文時代から日本は、贈与ネットワークとして豊かな海洋物流ネットワークを構築していた。大陸から流れ着いた流入民である原日本人は、それ故に、後からやってくる流入民に対しても寛容であり、基本的に「他集団にも共認原理を適用して受け入れる」というスタンスで接してきた。それ故に、集団の間には「集団間の安定的なつながりへの期待」と一体となった「モノ」が行き交うことになる。また、縄文後期の気候変動による日本国内での集団移動<(注18)>も、この贈与ネットワークの拡充に拍車をかけた。
 (注18)「6,000年前ごろ気候最適期にあった縄文文化は、縄文後期に入る4,000年前ごろから冷涼化に見舞われ、縄文晩期に入る3,000年前ごろには厳しい寒冷化・乾燥化に見舞われた。・・・縄文文化は・・・、春には山菜、夏には魚介類、秋には・・・広葉樹林<の>・・・木の実、冬には狩猟という、森の恵みに基盤を置いた自然=人間循環系の文化であった。その“自然の循環”のうち最も基本となる木の実の生産が、東日本地区で、うまく機能しなくなったのである。・・・<その結果、>東日本人が、・・・照葉樹林<帯であったがゆえに>・・・<人口過疎地帯であった>西日本地区に南下、流入した・・・。
 <支那でも>3,000年前の寒冷化・乾燥化は厳しく、北方の民は大挙して長江流域に押し寄せた。・・・<その結果、>長江流域の民が<逃げ出して>向かった<先のうちの2つが>・・・同じ文化(照葉樹林文化)を共有する・・・南朝鮮<と>日本列島<西部>地域<だった。>」
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_04_01kannreika_gamotarasita_jyoumonnhoukai.html
→「贈与ネットワーク」という概念(補助線)に網野の影響が見られるところ、そんな概念に煩わされることなく、鬼頭の言うところに素直に耳を傾ければ、おおむね首肯できる、というものです。(太田)
 そこへ、江南地方から、朝鮮半島から、稲と鉄の先進文明を携えた渡来民が漂着し、彼らを支配階級として迎え入れることで、弥生文明へと変化し、古墳時代を経て、古代王朝文明へと社会は移行していく。この大転換期にあっても、受け入れ体質の原日本人たちは、彼らと彼らが携えてきた先進文明を基本的に拍手で迎えた。こうして、縄文的な受け入れ体質の上に、マレビト信仰そして舶来信仰が塗り重ねられる。隼人や蝦夷といった少数派の反乱はあったものの、大多数は、既に縄文時代に進んでいた定住化と縄文農耕の発展形として稲作を受け入れ、弥生人=農耕の民になっていく。稲作を受け入れた人々は、稲穂を神からの授かりものと感謝し、豊作の一部を「初穂」として返すことを当然のこととして受け入れた。こうして稲作からの上がりを基盤にした神社ネットワークが国土を統一していき、天皇制の基盤をつくる。(ただし、複数の有力豪族の緩やかなネットワークに過ぎなかったため、中国から輸入した律令制=公地公民制は定着せず、基本的には有力豪族が各地に分散的に経営する荘園ネットワークとして定着していくことになる)・・・
 この神社ネットワーク→荘園ネットワーク+海運ネットワークから吸い上げられた富が平安の都に集積することで、平安京は一大消費都市となる。農民たちの稀な従順さと、島国ゆえの平安故に、軍備増強の必要のなかった平安貴族は、まさに平安ゆえに豪奢への欠乏を肥大させていく。そのため国交を閉ざしていたにも関わらず、唐物を求める舶来信仰への傾斜は相変わらずであった。つまり弥生農耕民の従順さと縄文以来の舶来信仰が古代市場拡大の原動力であり、それゆえに、西洋社会に負けない市場の成熟を非西洋社会において稀に達成したのである。・・・」
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/05/001064.html
→ここは、拍手を送りたい箇所ですね。
 言いたい点は数多いけれど、おおむね同感です。(太田)
 「西洋では、古代において金貸しを蔑視する風潮があったものの、中世以降、急速に金貸しが力をつけていった。十字軍以降の略奪を契機に世界的にも例のない持続的な経済成長を達成した西洋では、人々の中に無制限な自我・私権の追求を是とする意識潮流が形成されていった。西洋の資本権力が大衆を見方につけたことで国家権力も、市場主義を是とするしかなくなっていった。その背後には、土着的な共同体集団が略奪に次ぐ略奪を経てバラバラに解体され、誰も信用できないという西洋人の自我のあり様が関わっている。・・・
⇒鬼頭を責めるわけにもいきませんが、お定まりの欧州・イギリス一括り論ですね。
 欧州については、後述の1点以外は、中らずと雖も遠からずですが、イギリスに関しては、私がかねてから指摘しているように、最初から資本主義社会だったこともあり、一貫して「持続的な経済成長」が続きましたし、コモンローが確立していたことから「人々の中に無制限な自我・私権の追求を是とする意識潮流」など存在したためしがありません。
 なお、それまでユダヤ人がほぼ独占していた金融業に、12世紀後半にイギリスのヘンリー2世が聖ヨハネ騎士団(コラム#64、3812、3814、3816、4020、5308、6178)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E5%9B%A3
とテンプル騎士団(コラム#3812、3814、3816、3906、4286)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AB%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E5%9B%A3
に聖地派遣イギリス十字軍部隊の金融(資金移送・供給)を担わせたことを契機に、キリスト教徒が参入するようになったことは確かですが、イギリスや欧州で、「中世以降、急速に金貸しが力をつけていった」などとは到底言えそうもありません。
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_banking#Emergence_of_merchant_banks
 よって、鬼頭の欧州史に関する知識には疑問符が付きます。
 ということは、彼の支那史等に関する知識にも疑問符を付けざるをえないということです。
 結局、冒頭紹介した「世界を見渡しても、近代市場社会へと早期に脱皮することに成功したのは、西洋と日本だけ」との、実に魅力的な鬼頭の主張の根拠は薄弱である、と思った方がよさそうです。
 (直観的には正そうですが・・。)(太田)
 それに対して、日本では、土着共同体は渡来の支配階級をその先進性故に受け入れ、他方、支配階級の側もこの土着共同体を解体することなく融和したため、共同体が保持された。・・・
 つまり、日本は西洋と違って、自我は集団自我に止まることで、無制限な自我・私権の追求を是とする意識潮流が形成されることはなかった。・・・
⇒日本は人間主義社会であり、それは、(イギリスの)個人主義でもなければ、鬼頭が主張するところの、(欧州の、利己主義とセットになった)集団主義でもないことを、ここで、改めて、強調しておきましょう。(太田)
 こうした個人自我を押さえ込める集団が存在することで、人口増大にも抑止がかかったし、自然の摂理の範囲内での循環型経済も可能となったのだ。
⇒人間主義社会に生きる日本人の、他人や動物を含むところの環境への共感能力の高さが、人口増大の抑止や循環型経済の確立を可能にした、と私が考えていることはご承知でしょう。(太田)
 こうして人々にとって絶対不可欠な共認充足の基盤である共同体が保持されたことで武家政権は、金貸しの暴走を許さず、近世管理市場をつくりだすことに成功した。・・・
 時代潮流流れは確実に「管理市場構築」へと傾いている。」
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/05/001066.html
⇒前述したように、地理的な意味での欧州において、「中世以降、急速に金貸しが力をつけていった」などとは言えない以上、「金貸しの暴走」などもまたなかった、と言ってよいでしょう。
 実際、イギリスにおいては、ヘンリー4世が、1403年に金融業者が利益を得ることを禁じたくらいであり、欧州においては、これほど極端なことは行われなかったものの、儲けすぎと目された金融業者をアラゴンやフランダースの当局が、それぞれ、1401年と1409年に追放する等、中世期を通じて、金融業者に対する規制は強いまま推移しています。
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_banking#Emergence_of_merchant_banks 前掲
 また、私は、「近世管理市場」という概念(補助線)にも強い違和感を覚えます。
 近世、すなわち第二次縄文モードの江戸時代に、日本において、プロト日本型政治経済体制が成立したところ、それは、(恐らくは)縄文時代以来の、エージェンシー関係の重層構造・・強いて言えば、鬼頭の言う「ネットワーク」・・を市場が補完する形の政治経済体制、の江戸時代版なのであって、市場それ自体が「管理」されていたわけではないからです。
 ただし、その例外が米市場であり、「米が基軸通貨的役割を果たし<ていたため、>・・・<例えば、>享保の改革においては空米取引の許可や買米・囲米の実施、公定価格の設定、米会所への介入など<が>米価対策として実施<された>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E4%BE%A1
ところです。
 結論的に申し上げれば、鬼頭については、欧州/イギリス等、日本以外の歴史の知識が不十分ながらも、比較史的なアプローチを試みた点は評価できますし、日本の江戸時代までの政治経済体制(の変遷)について、その理論化に関しては不十分で不適切な部分もあるものの、かなり的確な実態描写を行うとともに、(比較史的アプローチを試みたからこそ、)その体制の先進性、普遍性・・超近代性と言ってもよろしいでしょう・・に気付いた点は、高く評価できます。(太田)
(続く)