太田述正コラム#6851(2014.4.2)
<網野史観と第一次弥生モード(その18)>(2014.7.18公開)
「室町時代においては、・・・畿内や西国では永楽通宝に代表される明銭が宋銭より大きくて使い勝手が良くないことや新し過ぎて私鋳銭との区別が付かないとみなされ、明銭が嫌われ宋銭が重んじられていたとする見方がある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E9%8A%AD 前掲
ことについては、以下のように考えられないでしょうか。
櫻井が、「元は紙幣専用政策をとり、紙幣の流通を円滑にするために銅銭の使用を禁止した」と記していたことはご記憶だと思います。
私は、銅銭を含め、支那の伝統的なものを少なからず排斥することとなる、元による支那征服によって、日本人の目からは、元以降の支那は、権威を失墜してしまったのではないかと想像するのです。
元は、有史以来初めて、日本列島に武力侵攻しようとした、にっくき、外国勢力だったということでもありましたしね。
だとすれば、全般的に、明銭が嫌われたとしても不思議ではありますまい。
また、櫻井は、「代銭納制の浸透による市場経済の展開は信用経済の発達<という>・・・効果ももたらした。割符・・・と呼ばれた手形は畿内の問屋が振出し、地方での買い付けに用いられ、地方の荘園の代官や百姓を介して京都の荘園領主の元に渡り、問屋に持ち込まれて換金された。割符による年貢納入が行われた地域もあったという。」とも記していましたが、私見では、日本はもともと「信用経済」であったことから、「代銭納制の浸透による市場経済の展開」が本当にあった・・私は疑問を抱いていますが・・としても、そのこととは基本的に無関係に、「割符」が生まれたのではないか、と考えています。
(江戸時代に入って、大阪の堂島の米市場では世界で最初の先物取引が行われたこと
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA
も日本の「信用経済」の早熟性を示すものです。)
更に、櫻井は、「中世的な信用の観念を前提とした市場経済社会は十四世紀をピークにして十五世紀から十六世紀にかけて急速に解体する。行き過ぎた市場経済化の反動で、流動化した社会から、情誼や関係性を重視する固定化した社会へと反転<し・・・>、戦乱の時代を経て江戸幕府が誕生することになる。江戸幕府では年貢の米納が復活。再び市場経済の成熟と信用経済の発展が見られることになるのは江戸中期・・・から幕末にかけての時期まで待たねばならない。」と記しているところ、「信用の観念」と「情誼や関係性を重視する<観念>」という、どちらも人間主義社会の属性であって対立的なものではないのに、この二つを対立的なものとしている点だけとっても、このくだりには疑問符を付けざるをえません。
更にまた、櫻井は、この関連で、「1570年前後に、・・・中国から日本への銅銭供給が途絶し、それが日本における銭経済の終焉をもたらした・・・。それにともない、年貢の代銭納制も維持が困難になり、しだいに米を中心とする現物納へと回帰していったと考えられる。・・・年貢の代銭納制下で展開した中世的な市場経済社会はこうして終焉を迎えたと考えられる。」と記していますが、仮に支那から、(明銭を含め、)銅銭の供給が途絶したとしても、かつ、それでもって「代銭納制」の維持が困難になったとしても、それが問題視されたのであれば、戦国時代末期の1570年前後において、ただちに対処することこそ不可能であったでしょうが、1590年に秀吉によって日本が統一を回復した
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E6%A1%83%E5%B1%B1%E6%99%82%E4%BB%A3
にもかかわらず、国内で銅銭が作られる運びとならなかったことの説明がつきません。
私は、元以後の支那の権威の失墜が、次第に元より前の支那の権威の失墜をももたらし、明銭のみならず、宋銭の貴ささえも薄れていき、それに伴って、税の「納付」にあたって、宋銭離れが生じ、かつて初穂の最たるものであった米・・宋銭の薄れてしまった貴さと同程度の貴さは維持し続けていたと見たい・・への回帰をもたらしたのではないか、と想像しているのです。
絹に回帰しなかった理由は、(前述したように)絹の生産量や生産地が減っていたことが大きいのではないでしょうか。、
6 終わりに
以上、日本における、極めて特異な時代であったところの、第一次弥生モードの特徴をかなり明らかにできたように思います。
それでいて、第一次弥生モードにおいても、縄文時代に由来する人間主義が、その生命力を失わなかったことも確認できたのではないでしょうか。
例えば、「初穂」ないし「贈与経済」の伝統が堅持されたおかげで、このモードの間に、権力と金力を完全に失うに至った天皇家/貴族達も、細々とではあったけれど、戦国大名等による寄進のおかげで、権威だけはかろうじて維持しつつ生き残ることができ、このことが、日本が、第二次縄文モードを経て、外圧により、第二次弥生モードに急激に転換せざるをえなくなった際、その大転換を、「尊王攘夷」対「勤王佐幕」、「大政奉還」、そして「王政復古」、といった天皇を基軸としたキャッチコピーでもって、円滑に行うことを可能にしたわけです。
(完)
網野史観と第一次弥生モード(その18)
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