太田述正コラム#6853(2014.4.3)
<経済学の罪(その4)>(2014.7.19公開)
 「<経済学者>にとって、人間の姿は、行動(action)のあらゆる諸進路について、諸費用と諸便益を常に秤量する計算機械であるところの、ホモ・エコノミクス(経済人)なのだ。
 経済学とは「経済的にすること(節約=economising)」に係るものであって、(時間の無駄(waste)を含め)無駄をなくしてあらゆるふるまいが目的に照らして効率的なものになるようにする。
 経済学者のデニス・ロバートソンによれば、経済学の任務は、「希少資源である愛について経済的にすること」だ。
 我々が希少性の世界に生き、愛といった無駄な諸活動に余り多くの時間を費やすことなどできないことから、我々は愛について経済的にする必要がある、と。
 経済学は、愛なくして我々の欲するものを獲得する方法を提供する、と。
 除外されているのは、人生を生きるに値するものにするところの、我々が愛し愛されることを「欲する」かもしれず、また、我々が美、余暇、その他たくさんのことを我々が欲するかもしれない、という観念だ。
 ホモ・エコノミクスなる説明(construction)をもっともらしくするため、経済学者達は、人間のふるまいは利己的であって、欲すること(「諸選好」)はカネでもって計ることができる、と仮定する。
 行動の異なった諸進路に係る諸費用と諸便益の計算を可能にするのはカネだ。
 あらゆる活動(activity)は、カネで計算することができる費用と便益とを伴う。
 愛も費用を伴う。
 <だから、>私が愛に時間を費やすとすると、「時間はカネ」であるからして、私が恋焦がれているところのiPadを買うための追加的なカネをつくる機会を逸してしまう。
 ホモ・エコノミクスのための最上の愛の形態は行きずりのセックス(quick sex)だ。
 というのも、それは時間を殆んど無駄にしないからだ。
 大部分の人々は、結婚は愛に関わることだと思い込んでいる。
 しかし、経済学者のゲーリー・ベッカーは、個々人は、自分達の配偶者達を選択するにあたって、諸関係の異なった諸タイプの諸費用と諸便益を計算することを示した。
 同様、真実を伝える、トランプでインチキをしない、自分の配偶者に花を買う、音楽を聴く、詩を読む、ことにも諸費用と諸便益がある。
 実際、カネ換算で諸費用と諸便益が計算できるふりを少なくとも伴わないような、人が考えることができる、活動(activity)の形態など殆んど存在しない。
 そして、もしも、人がこういった計算を、行為(act)を決める前に習慣的に行うならば、人は、ゆっくりと、しかし否応なしに、人間であることを止めてしまう。
 ただならぬ思いがするのは、経済学の訓練を受けると、人間は、経済学者達が人間はそうすべきだというやり方で行動し始めることだ。
 フィリップ・ロスコーは、<この>素晴らしい本の中で、経済学を学んでいる学生達は、他の諸科目の学生達よりも、顕著により計算高いことを示すとした研究を紹介している。
 経済学は、我々のすべての諸動機を汚染し、アマルティア・セン(Amartya Sen)<(コラム#759、3789、4208、6149)>の言葉によれば、「我々に矮小さ」を押し付けるのだ。 
 何をもって人間であると定義するかについてのディレンマはこうだ。
 計算するのは人間の出で立ち(outfit)の不可欠な要素であり、動物達は計算することはない。
 計算することなくして、ふるまいを経済的なものにすることはおよそ不可能だ。
 そして、ふるまいを経済的なものにすることなくして、富を増大させることは不可能だろう。
 しかし、我々が計算することしかしなければ、我々は人間であることを止めることになる。・・・
 ロボット達は、経済学者達が人間達はそうあるべきであると考えることと完全に合致したところの、効率的にして目的的な行為を行うようにプログラムすることができる。
 ロボット的文明には浪費は存在しない。
 だから、私が思うに、他と異なったところの人間の活動の本質は、諸結果を考えることなくして、また、獲得されることが予想される諸便益に対しての費用を勘定することなく、活動(activity)を行うところにある。・・・
 したがって、我々の頭ではなく心に、我々の計算ではなく直観に従うことこそ、人間が他と異なったところのあり方なのだ。」(F)
(続く)