太田述正コラム#6859(2014.4.6)
<経済学の罪(その7)>(2014.7.22公開)
「ロスコーの激怒(fire)の幾ばくかは、既に存在しなくなった一つの経済学に関して醸成されたものだ。
現代の経済学者達の多くは、新古典派経済学のいくつかの形態の代表として担ぎ出された代物(straw man)と関連付けられたところの、<ロスコーがあげる>仮定によって駆動される諸モデル、とは全く違う世界に取り組んで(work)いる。
最も興味深い新しい諸モデルは、利己と厳格な合理性という諸仮定に依存していない。
諸市場は機能すると仮定されず、多くの経済学者達は、不完全情報、社会的諸影響、社会資本と不均衡、という諸世界の中での<人の>ふるまいを探索している。
彼らは、広範な諸テーマに取り組んでいる。
その中には、しばしば、貧困、不平等、及び環境劣化、といった諸論点が含まれている。
ノルウェーの漁業の分析の中で、ロスコーは、ノーベル賞を受賞した学者であるエリノア・オストロム(Elinor Ostrom)<(注10)>の取り組みに触れていない。
(注10)1933~2012年。「国の政治学者、経済学者。・・・女性初のノーベル経済学賞受賞者。・・・米UCLA学士、修士、博士。インディアナ大学教授。」資源の配分は、「市場<と>政府・・・に加え、コミュニティが補完的役割を果たしたときに最も効果的になることを示した。言い換えると、森や湖などの共有資源(コモンズ)を効率的に管理できることを明らかにした。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%8E%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%A0
「共有資源とは、川、湖、海洋などの水資源、魚、森林、牧草地などのように個人や組織が共同で使用、管理する資源のことで、一般にコモンズと呼ばれている。地球環境のようなグローバルな共有資源を、とくにグローバルコモンズと言う。」
http://wakame.econ.hit-u.ac.jp/~aokada/kakengame/Dr.Elinor%20Ostrom_Nobel%20Prize%20in%20Economics.pdf
彼女の、共有諸資源(common resources)の研究(research)には諸漁業の研究も含まれているところ、共有諸資源の管理(management)にあたって、<彼女は、>コミュニティ的組織と社会的協力が果たしている積極的役割を探索した。
→イギリスには、資源には自然権が市民権に転化しうる資源と転化しえない資源(コモンズ)がある、という観念が存在するようであり(コラム#6643、6645)、イギリス発祥の政治経済学(Political Economy)中、経済学は前者に係る人間行動を分析する学問、政治学は後者に係る人間行動を分析する学問である、と考えることができます。
そのような文脈の下に、オストロムへのーベル経済学賞・・より正確には政治経済学賞と呼ばれるべきもの・・の授与を理解すべきでしょう。
(ここは、
http://wakame.econ.hit-u.ac.jp/~aokada/kakengame/Dr.Elinor%20Ostrom_Nobel%20Prize%20in%20Economics.pdf
の他の箇所からヒントを得た。)
そうであるとすれば、この書評子の批判は批判になっていません。
政治経済学中の経済学の話ではないからです。(太田)
<また、>行動経済学(behavioural economics)も流行っており、その研究の多くは、利他主義、公正、そして不平等への嫌悪に係るものだ。
→「行動経済学者の任務は、<ホモエコノミクス>モデルの数学的解のある性格(mathematically-solvable nature)を毀損することなく、かかる<行動科学の>諸観念を導入すること」
http://www.ft.com/intl/cms/s/2/9d7d31a4-aea8-11e3-aaa6-00144feab7de.html#axzz2wetLmo5Q
(3月23日アクセス)なのですから、ここでも、この書評子は、的外れなことを言っていることになりそうです。(太田)
もう一つの大きな分野(chunk)は、非金銭的諸動機付け、及び、うまく成し遂げた仕事に係る自負心、並びに、<人の>ふるまいを導くところの知的好奇心、といった<人に>本来備わっている<金銭的動機付け以外の>諸動機付けが演じる役割、に焦点を当てている。
→ここで書評子があげているのは、非金銭的動機付けではあっても、非利己的動機付け・・すなわち、利他的動機付け、ないし、(私の言葉で言えば、)人間主義的動機付け・・ではないのですから、ホモエコノミクス・モデルの範疇内にとどまっている、と言えそうです。
従って、やはり、的外れでしょう。(太田)
かかる学問(scholarship)の存在理由は、利己性と数学的合理性の諸仮定に依存しないところの人々がどうふるまうかについての理解だ。
→従って、このような総括はできないはずです。(太田)
金融危機の2年以上前の2005年に、私は米国で会議に出た。
私は、<その中の>住宅諸市場の分科会(session)に出た。
それは、経済学者達による一連の報告の一切合財からなっており、マクロ経済的安定性を維持できないサブプライム貸付の含意を探索したものだった。
だから、経済学者達全員が<サブプライム貸付問題の>共犯者ではなかったというわけだ。
事の次第は、銀行家達、規制者達、会計士達、及び監査人達が、この経済学者達の集団に耳を傾けず、その代わり、自分達の金儲けへの熱中に適合的である経済学の諸形態に耳を傾けた、ということなのだ。
換言すれば、新しい(alternative)経済学諸モデルが存在していたにもかかわらず、彼らはそれらを無視したのだ。
ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes)が喝破したように、「いかなる知的影響も完全に免れていると自分自身信じている、実務的(practical)な人は、通常、何人かの既に亡くなっている経済学者達の<学説の>奴隷なのだ。」・・・
この本で、ロスコーは、管理学、哲学、及び神学の知識を利用(draw on)しつつ、主流派経済学の諸問題の幾ばくかについての洞察力ある説明を通じて、コンセンサスへの道を提供している。」(D)
→ケインズだってホモエコノミクス・モデルに立脚していたことはさておき、サブプライム貸付の問題点の指摘もまた、ホモエコノミクス・モデルの範疇内で行われたと見てよいのではないでしょうか。
彼らは、サブプライム貸付の債務者の破産、銀行家達の破産や処罰、規制者達・会計士達・監査人達の処罰、を招来する恐れがある、と、これらの人々に対して注意喚起しただけのことである、と私は想像しています。(太田)
(続く)
経済学の罪(その7)
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