太田述正コラム#6883(2014.4.18)
<フランス革命再考(その4)>(2014.8.3公開)
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<脚注>
○ドルバック(Paul-Henri Thiry, baron d’Holbach。1723~89年):
「ドイツ出身の哲学者・・・オランダのライデン大学で法学を学んだ後、1749年からパリに居を定め、以降フランス人として生涯を送る。・・・ヴォルテール流の理神論や汎神論ではなく、もっとも早い時期に無神論を唱えた思想家の一人・・・全ての宗教的な原理から道徳を切り離し、自然的原理だけに道徳を還元する<とともに、>・・・あらゆる宗教的観念や理神論的観念を排して、無神論と唯物論と運命論(科学的決定論)を説<いた。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF
○スヒンメルペニンク(Rutger Jan Schimmelpenninck。1761~1825年):
他の3人とは時代がやや違う上、哲学者である他の3人に対し政治家なので、イスラエルがどうしてスヒンメルペニンクをここで持ち出したのか、腑に落ちない。
ライデン大学で法学を学ぶ。バタヴィア(Batavian)共和国時代のオランダの国家元首を(事実上のものを含め、)都合3度務める。
http://en.wikipedia.org/wiki/Rutger_Jan_Schimmelpenninck
彼は、定期的な選挙を通じての代表民主主義が中規模以上の国家にとって最も適切な民主主義の原理であるとした。すなわち、彼は、人民主権は疎外することも返上することもできないけれど、行政権(executive power)は民主主義的選挙で選ばれた人民の代表達に託すことができるとし、議会は、イギリス議会のように自らの名前でではなく、人民全体の名前で法を採択すべきであるとした。
http://books.google.co.jp/books?id=3xP4l0ug3rAC&pg=PA891&lpg=PA891&dq=Schimmelpenninck;philosopher&source=bl&ots=xvzgeFJ6pd&sig=VaJASPOQMgV51a9MZ5vXlDlvYoc&hl=ja&sa=X&ei=UvBQU8XoKsnYkgXGx4GgDg&ved=0CHUQ6AEwBw#v=onepage&q=Schimmelpenninck%3Bphilosopher&f=false
○プライス(Richard Price。1723~91年):
「ウェールズ人たる道徳哲学者にして非国教徒たる説教者(preacher)。彼はまた、政治パンフレット書きであり、米独立革命のような急進的、共和主義的、そしてリベラルな諸大義に生きた。」学歴なし。
http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Price
○エルヴェシュース(Claude Adrien Helvetius。1715~71年):
「フランス人たる哲学者にして知識人(litterateur)。・・・無神論的、功利主義的、かつ、平等主義的諸教義<を抱懐した。>」学歴なし。
http://en.wikipedia.org/wiki/Claude_Adrien_Helv%C3%A9tius
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「「理性」に立脚したところの、政治的平等、教権反対主義(anticlericalism)、そして近代的共和主義に関する諸観念がコンドルセ(Condorcet)<(注8)(コラム#798)>やトマス・ペイン(Thomas Paine)<(コラム#908、1695Q&A、3321、3327、3329、5083、5179、5840)>といった、急進的啓蒙主義思想家達を動機付けたが、彼らは、より王党派シンパ的であった諸派(フイヤン派(Feuillants)<(注9)>)やラファイエット(Lafayette)<(コラム#2945、5842)(注10)>のような貴族的な支持者達(supporters)によって体現されていたところの、「穏健的啓蒙主義の立憲君主主義」と衝突した。
(注8)コンドルセ侯爵マリー・ジャン・アントワーヌ・ニコラ・ド・カリタ(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet。1743~94年)。「フランスの数学者、哲学者、政治家。社会学の創設者の一人と目されている。・・・彼はルソーの直接民主制を否定し、唯一の社会的義務とは、一般の「意志」に従うことではなく一般の「理性」に従うことだと論じて間接選挙制を支持し<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%82%BB
(注9)「フランス革命に登場した党派の一つで、立憲君主派の連合である。フイヤン修道院を新しい集会場としてフイヤン・クラブ(・・・Club des Feuillants)を結成したことから、こう呼ばれる。・・・主要なメンバーとしてはラファイエット、・・・シエイエス・・・らが挙げられる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%B3%E6%B4%BE
(注10)マリー=ジョゼフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ, ラファイエット侯爵(Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert du Motier, Marquis de La Fayette。1757~1834年)。「フランスの・・・軍人、政治家である。・・・<米>独立戦争(1775-1783)を戦った彼は、フランスの絶対王政を立憲君主制に変革するべきだという構想を持ち、第2身分でありながら第3身分の側に立って・・・行動した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%83%E3%83%88
<そして、>この二つのどちらもが、イスラエルが現代ファシズムの前兆と見る、ロベスピエール(Robespierre)<(コラム#1256、1839、3321、3550、3739、6459)>の「専制的人民主義(authoritarian populism)」と闘争したのだ。」(A)
(続く)
フランス革命再考(その4)
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