太田述正コラム#6887(2014.4.20)
<フランス革命再考(その6)>(2014.8.5公開)
(4)英米人への評価
「イスラエルによれば、英米人達(Anglo-Americans) は、「完全な思想の自由」や「民主主義が政府の最善の形態であると同定する」ことに、何の貢献もしたことがない。
ロックやミルトン(Milton)<(コラム#1008、5290)>やアルジャーノン・シドニー(Algernon Sydney)<(注14)>や水平派(Levellers)<(コラム#529、1007、3465、3469、3471、5746)>及びディッガーズ(Diggers)<(コラム#529、5746)>、など忘れてしまえ、イギリス共和国(Commonwealth)<(注15)>「更には、フリーメイスン達及び大勢の欧州大陸におけるその帰依者達を溝に捨てよ、と。
(注14)Algernon Sidneyとも。1623~83年。イギリス共和国時代のイギリスの政治家。チャールズ1世の裁判の主宰者(commissioner)となるも王の処刑には反対した。しかし、彼の著書ががこの裁判で証拠として用いられたということもあって、王政復古後、大逆罪で死刑に処せられた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Algernon_Sidney
(注15)「1649 年 Charles 1 世の死刑後 1660 年の王政復古までの共和政治時代の<イギリス>」
http://ejje.weblio.jp/content/Commonwealth+of+England
イスラエルは、自由と民主主義の諸恩沢(gifts)は、ホッブス(Hobbes)<(コラム#46、81、88、1575、2812、3321、3571、3718、4346、4489、4736、5039、5998、6225、6258、6445)>、ベール(Bayle)<(注16)>、そして、とりわけ、スピノザの頭の中に起源を有する、と主張する。
(注16)ピエール・ベール(Pierre Bayle。1647~1706年)。「フランスの哲学者、思想家。」フランスで生まれ、ジュネーヴ大で学ぶ。フランスで大学教師となるが、プロテスタント(カルヴァン派)故に迫害され、オランダに移住。「ジョン・ロックと並ぶ寛容思想の先駆者とされるが、ロックは良心の選択を個人に内在する不可侵の権利と考えたのに対し、ベールは良心への服従を神の権利、人間の義務であると捉えて<い>・・・る。」代表作は『歴史批評辞典』。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AB
スピノザは、18世紀初の様々なフランスの著述家群によって追従された。
18世紀末の欧州大陸における諸革命は、その知的ルーツを、この急進的伝統に負っている。
結局、米独立革命すら、欧州の民主主義者達に対して「枢要な鼓吹」こそ与えたものの、「それは、同時に、気味が悪いほど(disturbingly)欠陥のある(defective)、不完全な(truncated)革命」だったの<であり、上記急進的伝統に即したものとは言えないの>だ。・・・
しかし、英米人達は、<少しは>勢い付くことができる。
イスラエルには、他にも嫌いなものを数多深く蔵している(harbour)からだ。
<例えば、>彼は、ルソーに我慢ができない。
すなわち、<彼は、>ルソーを、急進<的啓蒙>主義者達に敵対的であったし、社会を総体として放棄したし、ナショナリストにして検閲の信奉者にして代議民主制への反対者にして、要するに、プロト全体主義者であった、と描写している。
<こうして、>フランス革命の「より暗黒の側面」は、「主としてルソー主義者によって鼓吹された」、と彼は主張するのだ。
→ここだけは、結論的には、完全に同意です。(太田)
それに加えて、<彼は、>ルソーの重要性が大幅に過大評価されてきた<、というのだ>。
実際、「[ディドロとドルバックによる]・・・書籍群が、ルソーの政治的や社会的な理論的諸著作よりも、いや、実際、他のいかなる政治的や社会的なイデオロギーよりも、はるかに大きく、1770年代と80年代において、<欧州大陸での広範な>浸透(penetration)を達成していたのだ、と。」(G)
(5)イスラエルのフランス革命観
「自由、報道の自由、及び平等を信じたのは、ブリッソー・ジャコバン派(Brissotin Jacobins)<(注17)>だった、とイスラエルは主張する。
(注17)ジロンド派(Girondins)のこと。主な指導者の一人がブリッソーだった。(英国では、ブリッソー派(Brissotin)と呼ぶらしい。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E6%B4%BE
ジャック・ピエール・ブリッソー(Jacques Pierre Brissot。1754~93年)は「ジャコバン派の台頭によって追放され、他のジロンド派議員と共にギロチン台に送られた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%BD%E3%83%BC
「ジャコバン・クラブ<から、>・・・、まず立憲君主派であるフイヤン派<(前出)>が、ついで穏健共和派であるジロンド派が・・・脱退し、最終的に山岳派(Montagnards、モンターニュ派・モンタニャール<、ロベスピエール・ジャコバン派>とも)と呼ばれる急進共和派の集団がジャコバン・クラブに残り、主導権を握る。・・・ラファイエットやブリッソーなどのフイヤン派・ジロンド派の代表格も<当初は>ジャコバン・クラブに属していた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B3%E3%83%90%E3%83%B3%E6%B4%BE
ロベスピエール・ジャコバン派(Robespierre Jacobins)は、一般にもっとも「左翼」であったと見なされているが、事実は、人民主義的専制主義者達だった。
ブリッソー派「は、経済的不平等に対処することを心に描き、憲法的、法的、そして非暴力的諸手段、とりわけ、税及び相続諸税を社会の最弱者への財政支援と組み合わせることによって、より公正な社会を創造しようと試みた最初の人々だった。」
彼らは、「良心の自由と基本的諸人権」にコミットしていた、と。」(F)
(続く)
フランス革命再考(その6)
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