太田述正コラム#6889(2014.4.21)
<フランス革命再考(その7)>(2014.8.6公開)
「イスラエルにとっては、急進的啓蒙主義を生き返らせることは、啓蒙主義をより一般的に救うことを企図するプロジェクトの一環なのだ。
<急進的啓蒙主義は、>ひとつの回転偶力(moment)としても、一つの政治的プロジェクトとしても、学問的ポストモダニズムの装いの下における政治的相対主義から救われなければならない、と彼は考えているのだ。
フランス革命、及び、その急進的啓蒙主義や穏健的啓蒙主義との諸関係(connections)について、単に階級闘争の観点から見る何世代にもわたるマルクス主義歴史学者達、及び、恐怖時代(Terror)<(注18)>の論理が革命的教理問答集に最初から書き込まれていたと見るところの、彼ら<(=マルクス主義歴史学者達)>に対する修正主義的なリベラルたる批判者達、からの救出(salvage)を行うこともまた、彼は欲している。」(A)
(注18)1793年6月2日のロベスピエール派独裁の開始から1794年7月27日のテルミドールのクーデター(1794年7月27日)によるロベスピエール派の失脚まで。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%90%E6%80%96%E6%94%BF%E6%B2%BB
英語ウィキペディアは、1793年9月5日からとしているが、説明が付いていない。
この間、16,594人がギロチンで、約25,000人がその他の方法で処刑された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Reign_of_Terror
なお、上記英語ウィキペディアは、恐怖時代の終わりを7月28日としているが、27日はクーデター決行日であり、28日はロベスピエールらが処刑された日だ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Thermidorian_Reaction
「歴史学者達は、イスラエルが、・・・彼にとってのお好み以外の、急進的諸観念の間のあらゆる諸相違を無視(flatten out)しており、フランス革命に適用されるや、彼の諸議論は、あたかも19世紀のマルクス主義の図式(schema)の逆(inverse)のように感じることができる、という批判をしばしば投げかけてきた。
<マルクス主義における、>地下の(subterranean)経済的諸決定(determination)に代わって、報道の自由から非キリスト教化に至るあらゆるものを、それ以上の解釈を殆んど必要としないところの、鋳型(matrix)にはめ込む(slotted into)のが、<イスラエルの言うところの、>急進的啓蒙主義なのだ。・・・
<とまれ、>1793年の・・・10月には、周りが敵だらけになったことから、<ロベスピエール・ジャコバン派の恐怖時代下のフランス>政府は、自身を「平和が訪れるまでは革命的であり続ける」と宣言し、憲法<(注19)>は脇にどけられ<てしまう>。」(A)
(注19)1789年のフランスの人権宣言を踏まえ、ロベスピエール・ジャコバン派自身が、6月24日に制定し、国民投票で承認されたところの、後にフランス第一共和制憲法と称されることとなった、フランスの初めての憲法。同年10月10日に停止され、革命政府が樹立された。
http://en.wikipedia.org/wiki/French_Constitution_of_1793
「革命的諸観念が指し示すのは、フランス革命は、実は、優劣を競い合う3つの異なった諸革命<が組み合わさったもの>だったということだ。
すなわち、<それは、>穏健的啓蒙主義を擁護したラファイエットのような立憲君主主義者達、急進的啓蒙主義の諸観念のために闘ったところの、トマス・ペインと同盟した民主主義的共和主義者達、そして、啓蒙主義の鍵たる諸観念を暴力的に拒絶し、究極的には反啓蒙主義の人物達と目されることとなる、ロベスピエールのような専制主義的人民主義者達、の間の三つ巴の紛争だったのだ。・・・
<この本の>このような注目せざるをえない説明の中で、フランス革命は、啓蒙主義の解放的にして民主主義的な諸理念の極致として屹立することになる。
それが恐怖時代で終わりを迎えたのは、これらの諸理念が裏切られたことを意味するのであって、これらの諸理念が完遂されたこと(fulfillment)を意味するものではないのだ。」(B)
「数年前におけるその片われ(counterpart)<たる出来事である米独立革命>ではなく、1789年のフランス革命・・・という出来事・・ただし、その革命の初期のリベラルな段階のみ・・こそ、啓蒙主義の極致である、とイスラエルは考える。
やや逆説的に、彼は、フランス革命が後に恐怖時代(Reign of Terror)へと堕して行ったことを、より非寛容であると思われるところの、「穏健的啓蒙主義」に関連付けるとともに、ロベスピエールに穏健派の真の後継者たる役割を振り当てる。・・・
<ちなみに、「革命」という言葉についてだが、>ベーカー(Baker)<(注20)>が、意識的に意欲された比較的長い政治的プロセスとしての革命という近代的な概念は、1789年より後に<なって初めて>、フランス革命それ自体の成り行きの中から出現した、と説得力ある主張を行ったところだ。」(H)
(注20)Keith Michael Baker。ケンブリッジ大学士、修士、ロンドン大博士。英リード大、米シカゴ大を経て、現在、スタンフォード大近世(Early Modern)欧州史の教授。http://history.stanford.edu/baker_keith_m
(続く)
フランス革命再考(その7)
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