太田述正コラム#7103(2014.8.7)
<皆さんとディスカッション(続x2347)>
<太田>(ツイッターより)
「新疆暴動、死者「2千人以上」か 米放送伝える…」
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140806/chn14080620590011-n1.htm
キャリーしたのが産経だし、ソースがソースだし、しかも、同じソースが半分の数字も出してるけど、根も葉もない話じゃなさそうだな。
ダライラマが亡くなったらチベットも武装闘争へ?
<唯我独尊>
≫心の闇どころか、佐世保の底知れぬ闇。≪(コラム#7099。太田)
このような表現は、やっぱり「ヘン」ですよ。
もっともこのような表現で、佐世保の部分を創価学会、警察庁、国会議員などに置き換えても使えそうです。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという感情とは違うようにも思えますが・・・。
<太田>
最初のご投稿への回答で、無料(?)読者を1人失ったと覚悟していたのに、引き続き、太田コラムを読んでおられて、しかも、まだ、お分かりにいただけてない?
信じられません。
こうなったら、お分かりいただけるまでお付き合い願います。
私は、「非常識な違法行為を看過する佐世保の風土がそれらの背後にある可能性が高い」(コラム#7093)と指摘したのですから、「底知れぬ闇」というのは、一般論ではなく、佐世保に係る、私による「非常識・・・」云々の指摘は正しかったようだ、という意味です。
ここまではいいですか?
納得できなかったら先に進まないでください。
さて、一つの具体例でご説明しましょう。
度重なる未成年者による未成年者の不条理な殺害を受けて、佐世保市では、かねてより、「命を大切にする教育」をやってきたことは、よく知られていることであり、その典拠を付ける必要はありますまい。
しかし、殺人願望を持つ未成年者の出現は避けられないと考えた上で、そんな未成年者は、実際に人を殺すまでには前兆(注)たる「非常識な違法行為」をやらかすだろうから、それを厳しく咎め、対処すべきなのであって、「命を大切にする教育」なんてナンセンスなんです。
(注)今回の事件の前兆について、改めてどうぞ。↓
http://news.livedoor.com/article/detail/9122112/
それが、佐世保市における、人々が、物事の本質や軽重が判断できない「底知れぬ闇」の一つの表れなんですよ。
なぜナンセンスかって?
命は奪ってもいい場合、奪わざるをえない場合があり、無条件に「大切にする」ものではないからです。
そもそも、人間>動物>植物等、ですし、食物連鎖とか実験動物をどう考えるかということがあるし、対象を人間に限定したとしても、戦争、犯罪予防/正当防衛/緊急避難、刑の執行、等の場合は一般に人間を殺せるし、妊娠中絶(いつ「人間」になるかと関わる)、安楽死、自殺、はそもそも許されるのか、許される場合があるとしていかなる場合に許されるのか、といった哲学的とも言える悩ましい諸問題があり、ちょっとでも鋭い生徒が教師にこの種の問題提起をしたら、・・あえて言いますが、私だったら、小学校高学年以上の時点で、そうしていたと思います・・教師は立ち往生してしまうことでしょう。
いや、生徒側からの問題提起がなかったとしても、教師の中の良心的な人は以上のようなことを考えて七転八倒するはずです。
しかし、そうした話は全く聞こえてきません。
ということは、佐世保の教師も生徒も、いかに、おざなりに「命を大切にする教育」を「消化」してきたか、ということです。
そもそも、「命を大切にする教育」なんてできないし、しちゃいけないのですよ。
時間の無駄であり、そのための資源は他に回すべきなのです。
日本の学校では、一般に見事な人間主義教育が行われています。
しかし、本人の資質、或いは、家庭での人間主義教育が不十分、等から、殺人願望を持つ未成年者の出現は避けられません。
資源は、そういう未成年者の探知と治療/隔離のためにこそ用いられるべきなのです。
これ以外の例もいくらでも出せますが、一例で十分でしょう。
お分かりいただけましたでしょうか?
もとより、ご質問があればどうぞ。
ただし、具体的な、そして、できれば典拠を付けた質問をされるようお願いします。
<時頼について>
最近話題に上っていた北条時頼について。
太田さんが人間主義的名君として挙げておられる北条時頼ですが、そのような要素を前面に打ち出した時頼像については、どうも違和感を感じていました。
善政を行ったことは事実ですし、「鉢の木」に見られる時頼廻国伝説も知るところですが、北条時頼と言われてまず思い浮かべるイメージといえば、手段を選ばず専制に突き進んだ厳格なリアリスト、鉄の意志の権謀家といったものだったからです。
以上のことから、北条時頼をできるだけ立体的に捉えなおして実像に迫ることができればと思い、時頼について改めて調べてみました。
本からの引用の形になりますが、1.兄・経時と執権の委譲、2.宝治の乱、3.得宗専制への移行、4.廻国伝説と4つに分けての引用となります。
必要上かなりの分量になってしまい申し訳ありませんが、ご了承ください。
–兄・経時と執権の委譲–
「ただし、ここまで述べてきて言うのもいかがかと思うが、筆者は右の『吾妻鏡』にある話、全面的には信用していない。ことに時頼を考える場合、この幕府の正史ともいうべき記録はむしろ、装飾が甚(はなは)だしいと考えてきた。
なにしろ『吾妻鏡』の成立は、時頼の子・時宗(第八代執権)、その子・貞時(第九代執権)の代によるもので、当然、時頼のことを悪くは記録していないはずだ。
歴史に学ぶとき、史料を鵜呑にしては真実を見損なうことがある。できるかぎり傍証(ぼうしょう)の史料にもあたり、客観的な判断・検証を心掛けねばならない。
なぜ、このようなことをいうかといえば、”名執権”時頼は、本来、次男であり、執権職を継ぐべき立場にはなかったからだ。にもかかわらず、時頼の扱われかたが『吾妻鏡』では兄以上に際立っていた。」(『北条家の英知 日本最強の一族』加来耕三 P274-275)
「これらはのち、いずれも弟の時頼に継承され、彼の功績として称えられたが、もとは経時時代にはじめたものばかりであった。しかし、経時の評価は後世、ほとんど顧みられたことはない。なぜか。一つには、経時の施政が四年と短かすぎたことがあげられるが、より以上の理由として、その跡を幼いわが子が継がず、弟の時頼が継承したことが大きかったように思われる。
ここはぜひ、立ち止まって考えていただきたいところだ。」(同上 P278)
「『吾妻鏡』に拠れば、病いに倒れ、回復がのぞめないと観念した経時は、二人の息子は幼いので、時頼に執権を委譲(いじょう)。さらにはこれを、五代将軍・頼嗣の命令として御家人たちへ伝えたとある。
なるほど、経時の長男・頼助(よりすけ)はわずかに二歳でしかなかった。が、頼助を執権に立てて叔父の時頼が輔弼(ほひつ)する形をとることもできたはずだ。現に、将軍は幼少でも成立している。あるいは、頼助が成長するまで、時頼が期限つきの執権となってもおかしくはなかった。のちに時頼自身が、幼いわが子・時宗の成長を待つ間のみ、一族の長時(義時の三男・北条重時の子)に第六代執権を委譲している(長時の死後は、重時の弟・北条政村第七代執権となった。)
にもかかわらず、この時だけ、なぜか時頼が無条件の執権就任を果たした。しかも、普段は無視している将軍の命令という形式まで踏んでいる。
歴史は結果論でとらえるほど、危ういものはない。すべてが肯定されてしまい、そもそもの疑問が浮かんでこないからだ。プロセスで立ち止まり、確認する作業が必要である。
たとえば、この執権委譲はどのような場所で決定されたのか。
「深秘(しんぴ)の御沙汰」
密室での、謀議の中での結論であった。
…(略)…
また、経時の長男・頼助はのちに仏門に入り、佐々目僧正と称し、鶴岡八幡宮の別当にはなったものの、永仁(えいにん)四年(1296)二月に五十二歳でこの世を去るまで、ついぞ一度も、北条氏の家督=「得宗」の地位について、返却の相談もなければ、意見すらも聞かれていない。頼助の弟・隆時(隆政(りゅうせい))も同じで、仏門に入れられてしまったままであった。
時頼には一面で仏法に帰依し、弱者救済に懸命で、過渡期の幕府の舵取りをみごと成功させた名執権としての顔があった。これは間違いない。が、人間は完璧な人など存在しない。時頼には反面、冷酷な政治家としての顔が隠されていたことを忘れてはなるまい。この人物の凄さは、後者の、むしろ本性と思われる部分を、決して第三者に覚(さと)らせなかったところにあった。
読者諸氏の中には、時頼をけしからん、簒奪者(さんだつしゃ)ではないか、と思うかたがいるかもしれない。
確かに、その通りである。時頼には、否、北条一族にはすべて、この種の残忍さがあった。だが、これは一面、彼らの成そうとする事業そのものが、そうした精神を必要としていたことを抜きには語れない。
少しでも弱い者が上に立つと、それに害を加える者が周囲から出る、というのがこの頃の日常感覚であった。その害を防ぐには、能力ある強い者が上に立つしかなかったのである。自己の属する組織の長が、脆弱(ぜいじゃく)であれば替わり得る立場の人間が取って替わってもかまわない。むしろ、それを容認するのが、この時代の公理であったといってよい。
時頼はこうした時代にいきあわせた。そして、悪知恵の限りをつくした陰謀=必要な処置を講じて、前将軍・九条頼経の京への追放。それにからんだ人々への弾圧をおこなった。
…(略)…
それにしても先代=時頼の兄・経時は、なぜ、前将軍頼経を鎌倉から追放しておかなかったのであろうか。反執権の象徴として担がれることがわからなかった、とでもいうのか。否、むしろ逆であったとも考えられる。将軍の座を追われても「大殿(おおとの)」と呼称され、ある程度の権威は保たれたままの頼経であった。十二分に火種となることを、経時は承知していたはずだ。
それを知っていながら経時は、頼経を許しておける寛容さを持っていたのか、それとも頼経を利用して反執権派の人々を一掃するつもりでいたのか。結果論からいえば、どちらとも取れる。が、これから時頼がおこなう苛烈(かれつ)な対応を見せつけられると、少なくとも経時には、北条氏嫡流(ちゃくりゅう)の人らしい寛容さがあったと思いたい。」(同上 P279-282)
「北条経時の政治は、武士のための、武士による、武士の執権政治の安定維持に貢献したことにおいて、それが一面では北条氏の地位の保全強化をも目的としていたとはいえ、立派なものであったといってもさしつかえない。しかし、彼の施政の期間がわずか四年でしかなかったこともあり、またかつて泰時から叱られたりしたことがあるように、鎌倉時代においてすら評価されなかったこともあって、現在においてすら、正当な評価はなされていない。
…(略)…
経時は、自分の症状から見て病気の回復は望めそうにもないし、二人の息子はまだ幼いので、執権職を弟時頼に委譲した。実際には、経時自身の発意によるものであるが、混乱が生じてはいけないから、(まだ八歳でしかない)将軍頼嗣の命令ということにしたというのである。
一見、もっともそうであるが、よく読むとおかしいことだらけである。たしかに、このとき、経時の長男頼助はわずか二歳であったが、これを執権に立てて弟時頼が輔弼の任にあたってもよく、また、頼助が成長するまでのつなぎとして時頼が執権になるという方法もあったはずである。
のち、時頼が長時に執権を委譲したときには、後者の方法がとられている。また、経時の発意だと混乱が予想され、八歳の将軍の命だと混乱は生じないというのもおかしな話である。その上、将軍の命によるという形式をとったにしても、真実は経時の発意によるとダメ押しのように記しているのも、不自然である。
だいたい、このような重大な決定が、「深秘の御沙汰」によってなされたということが問題である。本来、これは北条氏得宗の私邸における家族会議のようなものだったと推測される。かつて北条時政の名越邸で、時政、牧の方、義時、時房が畠山重忠討滅の可否を論じたことがあるが、いわばこれであろう。
しかし、話題あるいは議題が畠山重忠討滅といった種類のものであった場合には、当然、他へは秘密にされるべきものであり、それが幕政の実権を握る得宗の私邸で行われたので、ついに「深秘の御沙汰」ということになってしまったのである。『吾妻鏡』を一読した者でなければ、この語の持つ不気味さは理解できないのである。『吾妻鏡』の後半には数回この語が見られるが、そのあと、きまってなにか事件が起こり、陰謀が発覚し、合戦が起こるのである。
そして、経時から頼時への執権委譲を決定したこの「深秘の御沙汰」は、『吾妻鏡』でその語が用いられた初例であった。この不吉な語を見るだけでも、執権職委譲には、なにか裏があったと感ぜずにはいられない。
…(略)…
<経時の子である>二人とも北条氏の家督(得宗)の地位は、時頼から返却されてはいない。
…(略)…
泰時(時氏)、経時と代々嫡男が嗣いできた北条氏の家督(得宗)の地位も、これ以降、経時の弟時頼の系統に移り、時宗、貞時、高時となっていくのである。
経時から時頼への執権職委譲は、兄から弟への委譲というだけではなく、嫡男の系統から次男の系統へという系統上の変化でもあったのである。そして、経時のことをあまりよくは言わない『吾妻鏡』は、時頼系の時宗、貞時の頃に編纂成立したものだったのである。」(『鎌倉北条一族【新版】』奥富敬之 P151-154)
2.宝治の乱
「かくして、ついに”三浦氏の乱”、または”宝治の乱”と呼ばれる合戦は起こったのである。
ところで、前述した和田氏の乱もまたこの三浦氏の乱も、そのありようはおおむね『吾妻鏡』の記載に拠っている。そして、その『吾妻鏡』は北条氏に都合よく書き記されていることは、よく知られた事実である。にもかかわらず、『吾妻鏡』には、その編纂者が後世に対して隠しておこうとしたことが、文字の裏からチョロチョロと見えるのである。
和田氏の乱にさいしては、和田義盛らが挙兵する予定だった日の前日に、北条義時は兵を動かして和田氏を攻め、和田氏方の援軍と和田本軍とを二分して滅ぼした。そして、この三浦氏の乱では、和平成立の使者を送って三浦氏を安堵させた直後、安達氏が突如兵を発したのである。北条時頼と安達景盛の両人の間にはみごとなまでの連携が見られることを指摘しておこう。」(鎌倉北条一族【新版】』奥富敬之 P175)
「時頼のやり口は、生粋の鎌倉武士らしいものではなかった。
打物(うちもの)とっての、正々堂々の合戦で勝負を決めず、流言飛語を用いて、相手方を心理的に操り、浮き足立たせて暴発寸前まで追いつめる。そうしておいて、ぎりぎりのところで話し合いに持ち込み、あるいは合戦に踏み込ませ、結局は一族を殲滅し、その所領の没収を含め、所期(しょき)の目的を達した。
…(略)…
しかし、よくよく検証してみると、この寄正応変の道、換言すれば譎詐奸謀(きっさかんぼう)こそが、北条氏の代々に伝わる生き残り策、兵法であったともいえる。」(『北条家の英知 日本最強の一族』加来耕三 P288)
「時頼は安達一族を急き立てて、ついに開戦の口火を切らせた。六月五日のことである。
しかもこの極めて慎重な権謀家は、この日、開戦の直前に家令の平盛綱を三浦邸へ派遣し、「世上の物騒、天魔の人性に入りたるか。上計(じょうけい)においては、貴殿を誅伐(ちゅうばつ)するにあらず、日頃のごとく、異心あるべからず」
と和平に決した旨をとどけさせている。
この日まで徹底して時頼に揺さぶられてきた<三浦>泰村は、この瞬間、全身の力がぬけたことであろう。周囲の者も、ほっと安堵の溜息をもらしたに違いない。そこへ安達氏を主力とした軍勢がなだれ込んで来た。今日でいう午前十時頃の出来事であった。
…(略)…
――幕府創業以来の功臣、三浦一族はここに滅んだ。
しかし時頼は、決して追捕(ついぶ)の手をゆるめず、全国の一族、縁者を次々と誅殺していった。
かつて三浦氏と双璧を謳(うた)われた千葉氏の当主・介秀胤も、泰村の妹婿であることを理由に自刃を強いられた。いうまでもなく、三浦一族の旧領は北条氏へ加増となり、ここに時頼の政権は名実ともに盤石となる。
興味深いのはこの騒動、宝治合戦はこと細かに当時の記録に述べられ、後世へ伝えられた。
つまり、勝者の北条氏はこうしたやり口を世間に対して、隠蔽する必要を感じなかったということである。世間も認めていた、ということになろうか。弱いこと、敗北することを悪とする当時の世相がうかがえる。」(同上 P306-308)
「乱の直後、陸奥名取郡(現名取市)、会津四郡、上総与宇呂保(現市原市養老)、同市原荘(現市原市)、武蔵六浦(むつら)荘(現横浜市金沢区)等々、三浦、上総権介、関、毛利などの諸氏の所領で北条氏のものとなったのも、また数多い。東北大学の教授だった故豊田武氏は、代々の北条氏のうち、時頼の代のときにもっとも北条所領が増加したのではないだろうかと推測されているが、その大部分は三浦氏族滅の直後のものだったと思われる。」(『鎌倉北条一族【新版】』奥富敬之 P179)
3.得宗専制への移行
「かつては将軍の代官にすぎなかった北条氏は、時頼の代で名実ともに幕府の主催者となった。
時頼はつとめて御家人のために、否、己れへ向ける御家人たちの冷たい視線を少しでもやわらげるために、経時時代からすすめていた幕政改革をいっそう前進させ、訴訟の公正さと迅速さを求めて、問注所(もんちゅうじょ)の奉公人らを召集しては”はっぱ”をかけ、新たに「引付衆(ひきつけしゅう)」を設置した。
評定衆の仕事を分担させることにより、何よりもスピード審理を心がけた。御家人の京都大番役も半年から三ヵ月に半減せしめ、各々の負担を軽くする処置を講じている。
「悪党」の退治令を出したのも、時頼らしい。
…(略)…
物価の統制を積極的に押しすすめたのも、時頼であった。とくに炭・薪(まき)・萱(かや)・藁(わら)・糠(ぬか)などが法外な値段にならないよう、今でいう物価調整をおこなっている。
こうしたいくつかの行財政改革は、より弱者への救済という方向へ広げられていった。
…(略)…
これは宝治合戦の、五ヵ月後に出された通達である。この達しは、土民百姓に対して、年貢を余分に水増しして課する守護や地頭があり、その「内検」をおこなった時頼が、土民百姓の惨状を知り、救援に踏みこんだ、いわば弱者救済令のようなもの。
こうした処置はおおむね、世間に好意的に迎えられたようで、後世の人々が時頼を北条執権中最良の人物にあげ、身分を隠して時頼自らが諸国を歩き、弱きを助け、強きを挫(くじ)く”廻国伝説”を生む契機ともなった(詳しきは後述)。」(『北条家の英知 日本最強の一族』加来耕三 P308-310)
「時頼が引付衆を新設して、訴訟事務の合議制を推し進め、御家人の利害保護を理念とする執権政治を最高潮にまで達しさせたとき、鎌倉幕府政治第三段階である得宗専制が開始されていたのである。
すなわち、合議制と法治主義を二大根幹とし、御家人の利害保護を目的として、北条氏が執権職に準拠して政治を行う執権政治は、宝治の乱を契機として、大きく後退した。これにかわって、北条氏得宗(家督)が得宗であるが故に権力を有し、その権力を得宗御内の利害を目的として行使する、いわゆる得宗専制政治が開始されつつあったのである。
御家人(東国武士)連合政権的性質を持つ執権政治は、御家人の代表者が評定衆に任ぜられて合議を行ったのであるが、得宗専制が開始されると、評定衆中に占める北条氏の割合が大きくなり、同時に、評定衆に任命される北条氏の年齢が下がり、ときには十歳前後の評定衆という例も頻出する。この場合、本当の幕政に関与し得たはずがないから、評定衆就任が一定の栄誉栄爵と化していたものと見ることができる。新設された引付制度においても、三番の引付頭人三人がすべて北条氏であったことも、注目すべきである。
かくして”武士のための、武士による、武士の”政権であった鎌倉幕府執権政治は、宝治の乱を契機として”北条氏のための、北条氏による、北条氏の”政権へと変質したのである。
評定衆任命が栄爵化し、評定衆制度が形骸化していったとき、ちょうど反対に幕政の実務に関与するようになったのが、寄合衆であった。本来、北条氏得宗の私邸に北条氏一門の主立った者が集まる家族会議的な”深秘の御沙汰”が、寛元・宝治の乱からしだいに定置のものとなり、重要幕政の枢機を審議する機関になっていったのである。」(『鎌倉北条一族【新版】』奥富敬之 P181-182)
–廻国伝説–
「晩年の時頼が、三年間、密かに諸国を廻国したという伝説がある。『太平記』巻三十五、『増鏡』九および謡曲の「藤枝」、「鉢ノ木」、「浦上」などが出典で、いずれも後世の成立だから信憑性はほとんどない。
しかし『吾妻鏡』に欠落している正元元年(一二五九)ないし弘長二年(一二六二)には、あり得たことだと見る人もある。しかし所詮は、時頼が密偵を諸国に派遣した程度のことで、これが廻国使と呼ばれるようになったものかと思われる。廻国使ということでは、北条泰時、時宗、貞時なども、諸国に派遣した形跡がある。」(『時頼と時宗』奥富敬之 P196-197)
「いずれも伝説に過ぎず、『吾妻鏡』にも、時頼が三年間も登場しなかったことはない。しかし、これだけ多くの本に記されていることは、そこにはなにかがあったのではないかと推測させるに充分である。
…(略)…
火のない所には煙は立たないのである。時頼の諸国巡検伝説は、彼が廻国使を派遣したという事実を火とした煙だったろうと思われる。
…(略)…
つまりは、密偵政治が行われたということであろう。泰時の派遣した巡国使は、たんに京方与力か否かだけを取り調べるものであったが、時頼が始めた廻国使は、そのほか全般にわたって、微行隠密のうちに調査したものではなかったろうか。そして、このような密偵政治は、すぐに恐怖政治に転化する性質を内包しているものであった。」(『鎌倉北条一族【新版】』奥富敬之 P186-188)
「その時頼が、正体を隠して法衣をまとい、諸国を行脚(あんぎゃ)したとの伝説が、やがて南北朝時代に成立する。
…(略)…
佐野源左衛門が登場する謡曲(ようきょく)「鉢(はち)の木」(南北朝成立)はそうした伝説の最高傑作といってよい。が、こうした時頼の活躍は、幕府の正史『吾妻鏡』にはもとより記載されていない。したがって創作だ、との見解が多いわけだが、これまた一蹴してしまうのはいかがなものか。
北条泰時が平盛綱を「安芸巡検使(あきじゅんけんし)」として派遣したことが『鎌倉遺文』に残されている。『北条九代記』には、時頼の時代「巡検使」「巡国使」がいたことが語られており、先の『弘長記』にも諸国をまわったのは時頼自身だが、ときに器量人を選んで諸国七道に代理の人間を派遣したとも述べている。
――時頼ならば、やりそうなことだ。
いま一つ、各地に残る時頼の廻国伝説を調べてみると、興味深いことに気が付いた。東北地方に現われる時頼は、悪地頭を懲らすのではなく、なぜか天台宗系の寺院を禅宗に切りかえる作業をおこなっているのである。」(『北条家の英知 日本最強の一族』加来耕三 P312-313)
「ところでこれらの時頼廻国伝説は果たして事実か、それとも『太平記』『増鏡』などの作者による虚構の創作なのか、一体どちらなのでしょう。かつて明治末・大正初の頃、この点をめぐって歴史家の間で論争が行われたことがあります。
…(略)…
批判論者の三浦さんは「自分は時頼廻国を史実とみるのは疑問が多いと思う、ただし完全に否認するにはまだ十分な条件が備わっていないと考えている」と言われましたが、これはたしかにもっともな意見と思います。
…(略)…
ただし私は、今に伝えられている時頼廻国伝説のすべてを以上のようにわり切って考える者ではありません。江戸時代以後、筆録された多くの伝承には、「いざ鎌倉」という表現の一般化にも示されているように、時頼礼賛の何種類もの書物の刊行・流布されていった影響が考えられるからです。ですから、この種の伝説については一つひとつ相当にきびしい吟味をしてみる必要があり、時頼の人と時代を考える際、安易な援用はさけたほうがよいと考えているからです。
それにしても時頼廻国伝説には、これまでみてきたのとは全く別種類のものもあります。それはもっぱら東北地方に分布しているのですが、代表的な例を三つあげてみます。一つは日本三景の一つ、陸奥の松島にあった天台宗の古刹(こさつ)松島寺の場合です。宝治二年(1248)、廻国の途中、ひそかに山王大権現の祭礼を見物中の時頼は、うっかり奇声を発したため衆徒にとがめられて危うく殺されそうになった。鎌倉に帰った時頼は直ちに武士を派遣して寺を焼き払い、その跡に禅寺の円福寺を建立、幕府の祈祷寺に変えてしまったというのです。
二つ目も有名な出羽の山寺(立石寺(りっしゃくじ))の場合です。慈覚(じかく)大師円仁(えんにん)の開創と伝えられる天台の古寺のこの寺にも、廻国中の時頼が立ち寄り、衆徒の勢いの隆盛なのをにくんで強制的に禅宗に改宗させたといいます。一の例によく似た伝説です。
三つめは東の松島に対する名所としても名高い出羽の象潟(きさかた)の蚶満寺(かんまんじ)の例です。この寺もまた円仁の建立と伝える天台寺院でしたが、ここにもまた時頼が廻国の途次に立ち寄り、新たに寺院を再興して干満寺とし、禅宗に改めさせたというのです。これらは皆、時頼廻国をきっかけとして天台宗から禅宗へと強制的な転宗が行われたことを伝えておりました、没落した御家人救済の物語などは全く伴なっておりません。
したがって、これらの伝説は前でみてきた時頼礼賛の伝説の影響は考えられず、これまでとは別の見方をとらなければなりません。とりあえずここでは、鉄の人、剛腕の政治家とも評される時頼の現実の政策の今一つの側面が、とくにこの地方に反映したのではないかと申し上げておきましょう。」(『鎌倉びとの声を聞く』石井進 P171-175)
以上、4つに分けた引用でした。
「時頼には、謀略の匂いがある。泰時のカラッとした明朗さ、たくましい究理力に比べると、巧知におぼれ、謀略を弄しかねない憾みがある。将軍を代えた場合も、三浦泰村にいったん和平の誓書を与えながら、その直後に討っている場合など、どうも、暗い印象を免れがたい。そのほか、罪人の取調べにあたっても、白状すれば許すと約束しておきながら、さて白状したとなると、法は法だからといって、斬罪に処したりもしている。
権力者というものは、そういうものだと言ってしまえば、それまでだが、果たして、一個の人間、生身の人間が、そういう暗さに堪えきれるであろうか。」(『新編 日本武将列伝』 P50-51)
調べなおしてみての感想ですが、やはり北条時頼を人間主義的名君とするのは一面的であり、そぐわないように感じました。
私は多少時頼のことを知っていたので引っかかりを感じたのですが、もし時頼のことをほとんど知らなかったら、北条時頼を人間主義的名君と言われて、そのまま受け入れていたように思います。
以上から、人間主義的名君の例として誰かを挙げる場合、他を探したほうがいいのではと思いました。
<太田>
ご教示、どうもありがとうございました。
ただ、私は、ご紹介いただいた、時頼の事績に関する史実や説・・私の知らなかったものも多い・・を拝見し、私が彼を選択したことが正しかったと改めて得心しています。
日本の弥生モード下の人間主義的名君は時頼のようじゃなくっちゃいけない、ということです。
時頼逝去後、北条得宗家や(後醍醐天皇は論外として、)足利将軍家に、彼に匹敵するマキャベリスト的な人間主義的名君が出現しなかったために、鎌倉幕府が滅亡しただけでなく、南北朝時代(1336~92年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
から殆んど時間を置かず、戦国時代(1467~1590年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
へと日本が長期内戦状態に陥ってしまったのだ、と思うわけです。
なお、私、仙台在勤中に、蚶満寺にこそ行っていませんが、立石寺は一度、松島寺(瑞巌寺)は二度訪問しているところ、不覚ながら、それぞれの禅宗転換の歴史は知りませんでした。
で、ウィキにあたってみたところ、立石寺については、「鎌倉時代には幕府の保護と統制を受け、関東御祈祷所となり寺は栄えたが後に兵火により焼失し、13世紀中頃には幕府の政策により禅宗に改宗となったが、延文元年(正平11年・1356年)斯波兼頼が羽州探題として山形に入部した後、兼頼により再建され天台宗に戻った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E7%9F%B3%E5%AF%BA
と、時頼との関係は必ずしもはっきりしませんし、瑞巌寺については、「禅宗側が伝える<伝説では、>時頼は、酒肉をとり色に惑う天台僧の退廃を目にして、法身と語らってから、兵を差し向けた」ということになっているようですよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E5%B7%8C%E5%AF%BA
また、蚶満寺については、「正嘉元年(1257年)8月、鎌倉幕府5代執権北条時頼(最明寺入道)が象潟を訪れて、・・・20町歩の寺領を寄進し再興している。」と本当に時頼が訪問したようですし、天台宗から曹洞宗への転換は、「天正15年(1587年)1月(『古寺名刹大辞典』(1992)では、この年を文禄元年(1592年)としている)、地元の金又左衛門・・・らの懇請によって、・・・曹洞宗に改めた。」ということのようですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9A%B6%E6%BA%80%E5%AF%BA
従って、時頼が、全国の天台宗(等?)の寺院を禅宗の寺院に無理やり転換させる政策を推進した、とは必ずしも言えないんじゃないでしょうか。
<太田>
それでは、その他の記事の紹介です。
笹井氏の自殺を大きく取り上げ、最後(下掲)を研究者として彼への事実上の讃辞で締めくくったた記事だ。↓
It is a shame that most of the discussion around his impressive career studying fundamental questions about neurons and stem cells will center around a scandal involving only two of his many papers.
http://www.slate.com/articles/health_and_science/science/2014/08/fraud_in_stem_cell_research_japanese_biologist_yoshiki_sasai_commits_suicide.html
今度はガーディアンに。
辛口の書評ながら、村上にノーベル賞を、で締めくくっているねえ。↓
http://www.theguardian.com/books/2014/aug/06/colorless-tsukuru-tazaki-years-pilgimage-haruki-murakami-review
「戦犯」シリーズの続きです。↓
http://j.people.com.cn/n/2014/0806/c94474-8765892.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0807/c94474-8766465.html
このセンセ、言うことに事欠いて、ちょっとひど過ぎるんじゃあねーの。↓
「・・・「中国はピンハネの国。軍事費が増えても多くは将校の懐に入る。しかも陸軍の権益が圧倒的に強い」とし、うまみの少ない海軍が利権を求めた結果が東シナ海や南シナ海への進出の構図だと説明した。
その上で、中国との間で有事が発生した場合の対処法について「中国の最弱点の食糧問題を突くことだ」とし、「例えば、日本の商社などが市場で穀物価格をつり上げれば中国は音を上げる。武力を使わずに勝利できる」と訴えた。」
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140807/plc14080708080008-n1.htm
プーチンのウクライナでの動きは、不凍港を確保するとのロシアの伝統的戦略に従ったもの、と主張するコラムだ。
(クリミアに関してだけはその要素もあるだろうけどね・・。(太田))↓
・・・Because of Russia’s geographical disadvantage, its necessity for access to warm waters, the Black Sea matters much more to Moscow than the Caribbean Sea to Washington or the South China Sea to Beijing. The United States had the Monroe Doctrine to protect its hemispheric waters, while today China defines its sea as “blue national soil.” Russia has never articulated its Black Sea doctrine, but make no mistake: it has one. Any attempt — real or perceived — to challenge Russia’s maritime interests in the Black Sea will face a stark response.
This absence of a stated Russian doctrine may explain the West’s interpretation of the takeover of Crimea as the beginning of an attempt to restore a bygone empire. But as European and American leaders contemplate what to do next with Russia, it is worth remembering that Putin’s takeover of Crimea has much more in common with Tsar Nicholas’s concerns in the Black Sea in 1914 than Leonid Brezhnev’s in Czechoslovakia in 1968. ・・・
http://www.foreignpolicy.com/articles/2014/08/05/tsar_vladimir_putin_russia_world_war_i_bosporus_crimea?wp_login_redirect=0
人間は、会った人が信頼できるかどうか、無意識のうちに瞬時に判定を下しているんだとさ。↓
http://www.theguardian.com/science/2014/aug/06/brain-subliminally-judges-trustworthiness-faces
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<K.K>
≫子機は、どうすればいいのでしょうか。≪(コラム#7101。太田)
現在太田さんが所有している子機がそのまま使えるはずです。ただし、子機の性能に制約されるので、無線の通信速度は従来のままとなります。
ノートPCの無線通信速度も向上させたい場合は、ノートPC1台分の子機を新調するとして、NEC製品を例にとると、下記のようなパターンになります。
A:6000円プラン
親機:WG600HPを購入(約6000円)
http://kakaku.com/item/K0000519565/
子機:購入しない(現在のものを流用)
有線の速度は1000Mbps(872Mbps)、無線の速度は子機に制約されて最速150Mbps(54Mbps?)
B:10000円(9000円)プラン
親機:WG600HPを購入(約6000円)
http://kakaku.com/item/K0000519565/
子機:WL300NU-AGを購入(約4000円)
http://kakaku.com/item/K0000089642/
もしくは
AtermWG600HP USBスティックセット(9000円強)を購入
http://kakaku.com/item/K0000519567/
有線の速度は1000Mbps(872Mbps)、無線の速度は最速300Mbps(184Mbps)
無線LANタイプ:11n/a(5GHz帯)&11n/g/b(2.4GHz帯)
C:12000円(11000円)プラン
親機:WR9500Nを購入(約7000円)
http://kakaku.com/item/K0000295968/
子機:WL450NU-AGを購入(約5000円)
http://kakaku.com/item/K0000358561/
もしくは
AtermWR9500N USBスティックセット(11000円前後)を購入
http://kakaku.com/item/K0000358565/
有線の速度は1000Mbps(872Mbps)、無線の速度は最速450Mbps(256Mbps)
無線LANタイプ:11n/a(5GHz帯)&11n/g/b(2.4GHz帯)
D:18000円(17000円)プラン
親機:WG1400HPを購入(10500円強)
http://kakaku.com/item/K0000485924/
子機:WL900Uを購入(7000円弱)
http://kakaku.com/item/K0000509581/
もしくは
AtermWG1400HP USBスティックセット(17000円弱)を購入
http://kakaku.com/item/K0000485926/
有線の速度は1000Mbps(940Mbps)、無線の速度は最速867Mbps(597Mbps)
無線LANタイプ:11ac/n/a(5GHz帯)&11n/g/b(2.4GHz帯)
E:20000円プラン
親機:WG1800HPを購入(13000円強)
http://kakaku.com/item/K0000485922/
子機:WL900Uを購入(7000円弱)
http://kakaku.com/item/K0000509581/
有線の速度は1000Mbps(940Mbps)、無線の速度は子機に制約されて最速867Mbps
無線LANタイプ:11ac/n/a(5GHz帯)&11n/g/b(2.4GHz帯)
(子機がプランDと同じなので、通信速度はプランDと変わりません。プランDに2千円ほど足して、NECの最上位ルーターを購入できたという自己満足が得られるプランです。)
速度的にはプランBで十分だと思います。あくまで理論上の話ですが、プランBで既に無線LANも現行ルーターの有線LANより速いです。
予算的に余裕があって、最新の無線LANを導入したいというのであれば、プランD/Eを選択するのもありだとは思います。
<太田>
WG1800HP単独で<午前中に>ヨドバシカメラに発注しました。
情報、大変助かりました。
WG600HPは取り寄せで、いつ入手できるか不安があったこともあるのですが、決定的な理由は次の通りです。
私の、自宅における残された最大の懸案(?)は、1階のピアノ部屋のパソコンで、2階のメインのパソコンに繋がれた外付けハードディスク内の音楽ファイルを聴けるようにすることです。(いちいちハードディスクを持参するのは面倒過ぎます。)
現在はUSB2端末しかない携帯パソコンを1階に置いていますが、今度買う新型ルーターに対応する子機が登場した時点でそれを追加購入し、その時点で、USB3端末のある携帯を1階に置くことにしました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%B9
なお、段々調子が悪くなってきていた、iPhoneのSiri、昨日、全く使えなくなり、アップルに相談したところ、指示に従ってiPhoneの初期化を実施することで復旧したのですが、作業に、かれこれ2時間半くらいを費やしました。
故障じゃなくってよかったけど、大変だったー。
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太田述正コラム#7104(2014.8.7)
<英米性革命(その2)>
→非公開
皆さんとディスカッション(続x2347)
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