太田述正コラム#6893(2014.4.23)
<フランス革命再考(その9)>(2014.8.8公開)
 「<この本>の中で、イスラエルは、諸不正義をこき下ろし、暴力的な騒動が起こるだろうと警告し、君主達が諸改革をもたらすよう求めたところの、大勢の18世紀の著述家達を引用している。
 しかし、彼は、既存の諸体制を転覆するための革命運動の類のものを誰かが呼びかけた、という証拠を提供することに失敗している。
 彼は、レナール(Raynal)<(注23)>とディドロの、影響力を持ったところの、反帝国主義的な『二つのインド史(History of the Two Indies)』を取り上げはしている。
 (注23)ギヨーム=トマ・フランソワ・レナール(Guillaume Thomas Raynal。1713~96年)。フランスの著述家たる知識人。イエズス会の学校で教育を受ける。
『二つのインド史』の3分の1はディドロが書いたほか、ドルバック等もこの書の執筆に関わったとされている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Guillaume_Thomas_Fran%C3%A7ois_Raynal
 「暴君達は、奴隷制の消滅に強制なくして同意することは決してないだろうし、これだけの大事へと彼らを誘うためには、暴君達を破滅させるか全滅させることが必要だろう」とその書には書かれている。
 このことに基づき、イスラエルは、この書は、「世界の抑圧された人々を、自由の名のもとで彼らの統治者達に対して立ち上がるべく明確に喚問した」と結論付ける。
 しかし、この引用箇所は、この書のロシアの農奴制だけを扱っている節から取ったものだ。
 servitude(奴隷制)は、フランス語ではここでは「農奴制」と翻訳される<べきだった>し、tyrants(暴君達)は、ロシアの荘園所有者達(estate-owners)だけに言及しているのであって、暴君一般に言及しているわけではない。
 イスラエルは、この一文を著しく文脈からはずれた受け止め方をしているのだ。
 イスラエルのこの本は、また、「急進的啓蒙主義」に全身全霊を捧げたとされる、わずか20人の人々が、革命初期の全アジェンダを提供した、という雑駁な(sweeping)主張を行うことで、困難に陥っている。
 イスラエルが彼のリストに含めた人々の多くは極めて取るに足らない連中であるところ、彼は<、その中で、>疑いもなく第一級の革命家達である4人に<関心を>集中する。
 革命初期の眩い雄弁家たるミラボー(Mirabeau)<(注24)(コラム#3722)>、『第三身分とは何か(What Is the Third Estate?)』という、唯一の最も影響力ある小冊子の著者たるシエイエス(Sieyes)<(注25)(前出)>、後期フィロゾーフ(philosophe)群の最も偉大な存在にして重要な革命政治家たるコンドルセ、そして、傑出した革命ジャーナリストにして急進的なジロンド派の指導者たるブリソー。
 (注24)ミラボー伯爵オノレ・ガブリエル・ド・リケッティ(Honore-Gabriel de Riquetti, Comte de Mirabeau。1749~91年)。「1789年の全国三部会では、貴族の出身として第二身分議員の資格もあったが、・・・第三身分議員としても選出され、本人は二つの当選から敢えて第三身分議席を選んで会議に臨んだ。・・・(イギリス型)立憲君主制を主張し・・・国民に絶大な人気があったものの、絶頂期に突如として病死し、死後にルイ16世と交わした書簡と多額の賄賂の存在が暴露されて、名声は地に落ちることになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%9C%E3%83%BC
 (注25)エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス(Emmanuel-Joseph Sieyes。1748~1836年)。「著書『第三身分とは何か』において「フランスにおける第三身分=平民こそが、国民全体の代表に値する存在である」と訴え、この言葉がフランス革命の後押しとな<り、>1789年6月17日、国民議会を設立した。・・・ジャコバン派が権力を握った恐怖政治の時代には逼塞して生き延びた。・・・総裁政府の末期に総裁の1人に就任。強力な政府の樹立のため、軍隊に人気のあるナポレオンに接近してブリュメールのクーデターを起こす。クーデター成功により臨時執政の1人に就任するが、執政政府を樹立する過程で、軍事力を有するナポレオンに主導権を奪われ、実権のない元老院議長に棚上げされた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9
 イスラエルは、シエイエスを「鍛え上げられたイデオローグ(hardened ideologue)」と呼ぶが、他の3人も同様の流儀で扱う。
 これはいただけない。(It is a very hard case to make.)
 大部分の歴史学者は、この4人の人物全員が「急進的啓蒙主義」の諸原則に専心していたと思われているにもかかわらず、レーニンやトロツキーの初期の化身(incarnation)などではないのであって、第一に、かつ何よりも、柔軟な自己本位の政治家達であった、と強く主張(contend)することだろう。
 ミラボーは、1790年にルイ16世と秘密の汚い取引をを極めて迅速に行い、革命国民議会で君主制のために働いた。
 ブリソーは、その一年後に、単独で、ルイ16世と汚い取引を行い、フランスを他の欧州諸大国との戦争に引きずりこもうとした。
 シエイエスに関しては、彼は、その政治的キャリアを、ナポレオンのフランス共和国に対するクーデタの黒幕(sponsor)となること・・それでもって、彼は大金持ちになった・・で終えた。
 また、この4人が、知的に、急進的なスピノザ的啓蒙主義に所属していたかどうかも、それほど明白なことではない。
 実際のところ、彼らの大部分に、最大の単一の知的影響を与えた人物は、イスラエルが「穏健的」啓蒙主義へと概ね追放したところの、ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)<(コラム#64、66、71、1122、1257、1467、1592、1594、1665、2107、3945、6024、6125、6277)>なのだ。・・・
 <更に言えば、>最も明白な候補者は、イスラエルの「急進的啓蒙主義」ではなく、重農主義(Physiocracy)<(注26)>と呼ばれた初期経済思想の学派なのだが、この学派はいかなる意味においても民主主義的ではなかった。
 (注26)「18世紀後半、フランスのフランソワ・ケネー<(Francois Quesnay)>などによって主張された経済思想およびそれに基づく政策である。・・・<彼らは、>富の唯一の源泉は農業であるとの立場から、農業生産を重視する理論であり、重商主義を批判し、レッセフェール(自由放任)を主張した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E8%BE%B2%E4%B8%BB%E7%BE%A9
 その背景は、イギリスと比較した場合の、フランスの、以下のような後進性にあった。
 「フランス農業は、当時まだ中世的な規制にとらわれていて、事業性に富む農民の足を引っ張っていた。昔からの封建主義的役務――たとえば corvee (賦役)、国に対して農民が無料提供すべき労務――がまだ有効だった。町の商人ギルドの独占力のため、農民たちは産物を一番高値をつけた買い手に売ることができず、投入を一番安いところから買うのもできなかった。もっと大きな障壁は、地域間での穀物移動にかかる国内関税だった。これは農業取引を深刻な形で妨害していた。農業セクターにとって大事な公共事業、たとえば道路や排水は、悲惨な状況になっていた。農業労働者の移住に関する規制のおかげで、全国的な労働市場も形成されなかった。国の生産的な地域にいる農民は労働力不足に直面し、賃金コストが高騰したので生産量を下げざるを得ず、生産性の低い地域では、それに対して失業労働者の大群が極貧の中でうろうろしていて、賃金をあまりに低く抑えたために、農民たちはもっと生産性の高い農業技術の導入をしようという気が起きなかった。」
http://cruel.org/econthought/schools/physioc.html
 すなわち、私に言わせれば、重農主義者達は、(工業もイギリスに比べて遅れていた)フランスにあって、同国の、脱封建制によるイギリス化(資本主義化)を目指した、ということなのだ。
 この学派は、部分的には、自由貿易と社会諸資源の合理的管理を擁護したところの、ミラボーの父親<(注27)>によって生み出されている(developed)。」(H)
 (注27)ミラボー侯爵ヴィクトル・ド・リケティ(Victor de Riqueti, Marquis de Mirabeau。1715~89年)。
http://en.wikipedia.org/wiki/Victor_de_Riqueti,_marquis_de_Mirabeau
(続く)