太田述正コラム#6939(2014.5.16)
<戦争の意義?(その19)>(2014.8.31公開)
暴力的な死の諸発生率に関して信頼できる統計は残っていない。
 そこで、我々は、質的な文献ないし芸術上の諸典拠や発掘によって得られた非体系的な証拠を用いる他ない。
 というわけだが、これらの諸典拠が提供する絵柄は瞠目するほど一貫しているように見える。
 すなわち、偉大なるローマ、漢、そしてマウリヤ(Mauryan)<(注27)>諸帝国は、前史的な諸団体(band)の世界よりもはるかに安全な諸場所であったように見えるのだ。
 (注27)BC317年頃~BC180年頃。「アショーカ王の死<(BC232年)>後国家は分裂・・・アショーカ王の残した碑文などから、当時の認識が「マウリヤ帝国と言う1つの巨大な国家を支配するアショーカ王」ではなく、「マガダ国の王であるアショーカ王が他国をも支配している」というものであったことが知られる。このことはアショーカ王を初めマウリヤ朝の王達が単に「マガダ王・・・」としか称しておらず、全体を総称するような名前が無かったことに現れている。・・・場所によって異なる詔勅、法律が発せられ全領土に画一的な統治体制が敷かれるようなことはなかった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D
 「マガダ国(Magadha・・・)は、古代インドにおける十六大国の一つ。ナンダ朝のもとでガンジス川流域の諸王国を平定し、マウリヤ朝のもとでインド初の統一帝国を築いた。王都はパータリプトラ(現パトナ)。・・・紀元前800年頃までにはこの地域にもアーリア系の住民が浸透していた。インドにおいてちょうど鉄器時代が始まった時期だったこともあり、当時インド最大の鉄鉱石の産地であり、かつガンジス川を介した水運と森林資源が存在したこの地方は急激に発達した。マガダ地方は身分制度が緩い地域(言い換えれば無秩序)であったことが知られしばしばガンジス川上流域地方のバラモンなどの知識人達から身分制度の乱れを批判され軽蔑された。これはマガダ地方が当時のアーリア系住民にとっては新天地であり、伝統的なバラモン教の習慣や権威の影響力が小さかったことと関係すると考えられる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%83%80%E5%9B%BD
 「ナンダ朝<は>・・・シュードラ出身の王朝として当時、また後世においても忌避された」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%80%E6%9C%9D
→モリスは、自分の説に無理やり現実をあてはめるために、マウリヤ「帝国」をローマ、漢と同列に置いたけれど、マウリヤの実態は、80年強続いた同君連合的なものに過ぎないのであって、インド亜大陸においては、(ムガール帝国に至るまで、)帝国形成は基本的になされなかった、と言うべきでしょう。(太田)
 前にも言及したように、人類学者達は、しばしば、石器時代の人々の10~20%が暴力的な死を遂げたと推測しているところ、20世紀においては、それは1~2%になった。
 BC1,000年紀の後半の諸帝国においては、現代期における最高限度たる2%から前史期における最小限度たる10%の間のどこかだった。
 私の推測は・・・は、一応、前者に近かったというものだ。
→石器時代についても諸帝国の時代についても、暴力的な死に係る数値は単なる推測であるところ、モリスに至っては、後者の時代について、何の根拠も示さずに、低い数値を想定しています。
 モリスは、思い付き程度の話をしている、と言わざるをえません。(太田)
 この古代における暴力の減少は、ギリシャで発明された欧米的戦争方式(Western Way of War)ではなく、ユーラシアの運の良い諸緯度全域で発展したところの、戦争の生産的方式(Producive Way)の結果だった。・・・
→ヴィクター・デーヴィス・ハンソン(前出)は、「政治的自由、資本主義、個人主義、民主主義、科学的探究、合理主義、公開討論といった欧米の諸価値は、戦争に適用された場合、とりわけ致死的な組み合わせを形成する」ところ、
http://en.wikipedia.org/wiki/Victor_Davis_Hanson
それは、古典ギリシャから始まったと主張した(前出)のですが、古典ギリシャに、いや、当時のアテネに限定したとしても、「政治的自由、資本主義、個人主義、民主主義」があったとは必ずしも言えない(コラム#3453、6727参照)上、「民主主義」のアテネが「非民主主義」のスパルタにペロポネソス戦争で最終的に敗れたことはさておき、ナチスドイツが、英本国プラス米国に匹敵する人口を擁していたとすれば、恐らく間違いなく先の大戦の欧州戦域で勝利を収めていたであろう(コラム#2276、5460参照)ことから、ハンソンの主張はナンセンスです。(太田)
 生物学的進化同様、文化革命もきれいな過程ではない。・・・
 ・・・生産的戦争はたびたび非生産的なものへと変容した。
 すなわち、より大きくて安全で豊かな諸社会を構築する代わりに、戦争の長期的効果は、実際には、これらの諸社会を粉砕したのだ。
 その結果は、生活は、より汚く貧しく短いものになった。
(続く)