太田述正コラム#6947(2014.5.20)
<欧州文明の成立(その3)>(2014.9.4公開)
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<脚注:イギリスの貴族>
(イギリスを含む)英国には、欧州と違って、現在でも正真正銘の貴族(peer=peerage=nobility)がいるので、イギリスも階級社会である言えるのではないか、という質問に先回りして答えておこう。
確かに、革命も敗戦も基本的になかった英国には、今でも貴族・・公侯伯子男の世襲貴族(hereditary peer)・・がいる。
しかし、欧州のように貴族の一族はみんな貴族というわけではなく、爵位を持っている者と、公・侯爵に限ってはその長男も貴族に列せられるにとどまる。
(世襲男爵の一部等に女性も襲爵できるものがあるが、ここでは立ち入らない。
なお、1999年をもって、世襲貴族は、上院議員に自動的になる権利を失っている。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Peerage_of_the_United_Kingdom 以下
例えば、ウィンストン・チャーチルは、父親のランドルフ・チャーチルの長男だったが、この父親が第7代マールバラ公爵・・その邸宅であるブレナム宮殿でウィンストンは生まれた・・の三男だったので、父の代から平民だった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%AB_(1849-1895)
そのため、貴族は、英国全体でも数百人しかおらず、イギリスには、過去も今も、貴族「階級」は存在しない。
それを象徴しているのが、英語における、名前の前に付けるフォン、ド、ドンといった貴族階級を表す前置詞の欠如だ、と私は思う。
以上については、イギリスが個人主義社会であることが背景にある、と言ってもよかろう。
しかし、同じ英国でも、イギリス以外では、貴族制、つまりは階級制、に近いものが実態として生き残っているようだ。
例えば、スコットランドでは今でも次のような有様らしい。
「スコットランドの私有地の50%は432名の人々の手中にある。
<(その筆頭は、スコットランド国王たるエリザベス女王だ。)>・・・
彼らは、キャピタルゲイン税、相続税、取引諸税(business rates)が免除されている。・・・
これらの税諸免除は、土地の価格を高騰させ、諸コミュニティがそれを買い上げることを不可能にしている。
これらの諸地所(estates)は大蔵省に殆んど何も納税しておらず、彼らがそれら諸地所においてやっていることは農業とは似ても似つかないにもかかわらず、彼らは、農場諸補助金を何百万ポンドも受け取っているのだ。」
http://www.theguardian.com/commentisfree/2014/may/19/vote-yes-rid-scotland-of-feudal-landowners-highlands
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イ 欧州的封建制の成立
ここで、欧州的階級制の成立とオーバーラップするところの、欧州的封建制の成立のゆえんを振り返っておきましょう。
(以下、「」内は、http://en.wikipedia.org/wiki/Feudalism_in_the_Holy_Roman_Empire より。)
「<封建制の成立には、>ローマのパトロン・クライアント制(Roman system of patronage (or clientage))」<と>ゲルマンの氏族制(Germanic clan system)<が与っている。>
古代末期において、ローマのパトロン・クライアント制と移住期(Migration Period=(Volkerwanderungszeit)(ローマの地におけるゲルマン諸王国)の氏族(Sippe )諸関係の中から、統治者達と彼らの臣民達との間の関係は、当たり前のものとして受容されたところの、圧倒的(prevailing)コンセンサスへと発展した。
ローマ文化においては、パトロン(金持ちのローマ市民)が、彼の解放奴隷達を<クライアントとして、>パトロネージという、依存関係に自動的にとどめ置くことはごくありふれたことだった。
これは、クライアントに、彼のパトロンが、戦争に行く時にはこれに随行し、このパトロンがそう望んだ場合には彼を守ること、また、仮にこのパトロンが公職に就いた時には手足となって活動したり、彼が公衆の面前で代表者として諸イベントに出席する際(on representational events in public)には随行したりすること、を求められた。
その見返りとして、パトロンは、生活のあらゆる側面において、彼のクライアントを、確実に法的かつ実際的に支えなければならなかった。
ローマ帝国内のローマ市民も非ローマ市民も、そして諸種族の全体さえもが、パトロン・クライアント関係を持つことができた。
古代末期、すなわち、ローマ帝国の終焉の頃、この形の関係が、田舎の諸地域で採用されることがどんどん増えた。
というのも、ローマのノメンクラトゥーラ(nomenklatura)は、自分達の広大な諸地所(ラティフンディウム群(Latifundia)<(注3)>)・・彼らは、しばしば、その上に、自分達自身の裁判管轄(jurisdiction)と強化諸牢獄さえ持っていた・・を、自分達の避難所として、かつまた、経済的に重要な諸支柱(pillars)としても、見る度合いがどんどん増大していったからだ。
(注3)「ラティフンディウム(・・・Latifundium<(単数)>)は、古代ローマにおける奴隷労働に頼った大土地経営である。
第2ポエニ戦争後の、古代ローマの支配領域拡大期において、属州で広く行われた。ローマが新たな領土を獲得した際に、多くの農地<を>国有地としてローマが所有する事となった。その国有地はローマ市民に貸し出されたが、その多くは奴隷を多数所有、あるいは新たに購入できる貴族が借り受けた。そして貴族は実質上の大土地所有者となった。・・・
全ての貴族が大土地所有者となった訳ではなく、ラティフンディウムの利が得られず没落する貴族もいれば、平民でラティフンディウムに参画し経済的にのし上がった者もいる。これによりローマの貴族階級は、従来の貴族層であるパトリキに、従来の平民から勃興した階層を加え、新貴族階層であるノビレスの形成を見る。・・・
ラティフンディウムによって安価な食糧生産が可能になり、ローマに富が蓄積した。
一方で、ポエニ戦争で疲弊していた中小農民の没落に拍車をかけた。奴隷無しの家族経営、あるいは1人か2人の奴隷を使っての自作農は、安価な奴隷を大量に使役するラティフンディウムに対して、経営コスト的に太刀打ちができなくなった。彼らの多くは土地を失い、無産市民としてローマに流入し、大きな社会問題となった。・・・
奴隷<に>労働力<を>頼ったラティフンディウムは、征服地の減少に伴う奴隷供給の低下とともに経営が行き詰まった。従来、安価な奴隷を使い捨てのように酷使して多大な収益を上げてきたのだが、奴隷が高価になると使い捨てる事が不可能になったのである。
そのため、奴隷の代わりに没落農民を労働力とする「コロナートゥス」の制度が代わって属州で進行する。これがやがて中世における農奴制へとつながっていく。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%95%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%83%A0
当時、クライアント達は、自分達のパトロン達に、通常、土地の配分を通じて束縛されていた(bound)。
(続く)
欧州文明の成立(その3)
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