太田述正コラム#6965(2014.5.29)
<支那文明の起源(その3)>(2014.9.13公開)
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<脚注:支那文明の平和志向性>
「世界殺戮史に思う」シリーズ(コラム#5104以下)で、その時代時代における世界人口比で見た、死者数の大きい人災の上位20位までの中に、新・王朝(Xin Dynasty)(9~23年)(3位)、安史の乱(An Lushan Rebellion=An-Shi Rebellion)(755~63年)(5位)、明王朝の没落(Fall of the Ming Dynasty)(1635~52年)(6位)、元王朝の没落(Fall of the Yuan Dynasty)(1340~70年)(13位)、太平天国の乱(Taiping Rebellion)(1850~64年)(14位)、毛沢東(大部分は飢饉)(Mao Zedong (mostly faime))(1949~76年)(15位)、という具合に、支那での人災が6つも登場するではないか、という予想される反論に答えておく。
第一に、支那の人口は、常に、旧世界の総人口の3分の1~4分の1を占めてきたのだから、特段、支那で死者数の大きい人災の頻度が大きいわけではない、ということだ。
第二に、(元王朝も支那の王朝であると見れば、)これらの支那での人災は、全て内戦や支那国内「犯罪」であって、チンギス・ハーン(Genghis Khan)(1206~27年)(1位)、中東奴隷貿易(Mideast Slave Trade)(650~1900年)(2位)、ティムール(Timur)(1370~1405)(4位)、ローマの没落(Fall of Rome)(5世紀)(7位)、イスラムのインド征服(Muslim Conquest of India)(11C~18C)(8位)、大西洋奴隷貿易(Atlantic Slave Trade)(15C~19C)(9位)、南北アメリカ大陸の征服(Conquest of the Americas)(15C~19C)(10位)、のような、上位10位以内に入っているところの、支那以外での人災のような、外征や国際「犯罪」に相当するような事件は一つもない、ということだ。
支那に外征するに値するような周辺地域など存在しなかったなどとは到底言えない。
外征に関して言えば、朝鮮半島に関しては、実に、BC12世紀に殷の王族が同半島に最初の王朝を樹立して以来、8世紀後半の安史の乱頃まで、支那は、半島内に直接支配地を有し続けていたというのに、その後は、14世紀に一時元が直接支配下に置いただけで、現在に至っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%9D%B1%E9%83%BD%E8%AD%B7%E5%BA%9C
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
また、東南アジアに関しても、BC3世紀の秦から始まって唐が滅亡する10世紀前半まで、支那はベトナム(北部)を直接支配下に置き続けていたというのに、その後は、14世紀に元が何度か食指を伸ばしただけで、現在に至っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
清時代における、チベットやモンゴルの併合については、ここでは立ち入らない。
激しい内戦はやっても、外征には消極的である、ということでは、支那以外であれば、スリランカ(シンハラ人)を思い出す。
スリランカは、現在、人口2000万人余であるところ、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AB
同国で多数派を占めるシンハラ人(概ね仏教徒)は、有史以来、侵攻はされてもインド亜大陸に侵攻したことがないけれど、分離独立を主張したタミル人と激しい内戦を4分の1世紀(1983~2009年)にわたって行い、6万人から10万人の死者を出している。
ただし、この内戦は、どちらかと言えば、シンハラ人が受けて立ったものだ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sri_Lankan_Civil_War
ところで、シンハラ人は上座部仏教徒である・・ちなみに、スリランカに上座部仏教を伝えたのはマウリア朝のアショーカ王の王子とされている(日本語ウィキペディア上掲)・・わけだが、マウリア朝やモンゴル人が仏教化・・但し、モンゴル人の場合は、大乗仏教中のチベット仏教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E4%BB%8F%E6%95%99
・・することで平和志向的になった話を以前にしたことがあるところ、カンボディア人も、13世紀に上座部仏教化すると、その当時のクメール王朝が弱体化している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%83%E3%83%88
また、ビルマでは、支那南部から中部ミャンマーに南下したビルマ人が建てた国の王が、11世紀に上座部仏教を事実上国教化して以来、千鳥足的な歴史しか残さぬまま、英領化されてしまう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%BA%A7%E9%83%A8%E4%BB%8F%E6%95%99
http://en.wikipedia.org/wiki/Buddhism_in_Burma
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BC
更に、タイでは、アユタヤ朝(1351~1767年)を14世紀に創健した王が上座部仏教を国教としたが、16世紀後半には、そんなビルマの属国になってしまった時期さえあり、しかも、18世紀後半には、アユタヤ朝はビルマに滅亡させられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A6%E3%82%BF%E3%83%A4%E7%8E%8B%E6%9C%9D
その後継王朝の後継王朝たる現チャクリー朝期(1782年~)にタイが植民地化しなかったのは、僥倖にも英仏の緩衝地帯となったために過ぎない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E7%8E%8B%E5%9B%BD
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
これらは、やはり、仏教の平和志向性を裏付ける傍証ではなかろうか。
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(続く)
支那文明の起源(その3)
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