太田述正コラム#6967(2014.5.30)
<支那文明の起源(その4)>(2014.9.14公開)
すなわち、口先では民本主義を唱和しつつも、被支配層からの最大限の搾取を旨とする利己主義者達からなる支配層と、阿Q<(注5)>的な被支配層からなる支那にあって、墨子は、「生活必需品の増産を至上命題と」しつつ、平和を確保するためには、「義の解釈権を君主が独占し、その義を全家臣及び民衆が信じ<るとともに、ひたすら>、生活必需品の増産に勤しまなければならない、という」唯物論的全体主義思想を唱え(コラム#1640)、この墨家の思想を最も忠実かつ徹底的に実践した秦の始皇帝によって、長きにわたった支那の(春秋戦国時代の)戦乱が終息し、北と南とを包含した統一国家が支那に初めて成立し、ここに支那文明が確立した、と私は考えるのです。
(注5)「権威には無抵抗で弱者はいじめ、現実の惨めさを口先で糊塗し思考で逆転させる・・・滑稽<な人物>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BFQ%E6%AD%A3%E4%BC%9D
阿Q達は、利己主義者達であり、人間主義的な言動は、一族郎党の範囲内でしか見られない。これが、私の言うところの、一族郎党命主義である。(コラム#6319等)
さて、墨子を始祖とする「墨家は儒学と並び称される程の学派となった<にもかかわらず、>・・・秦帝国成立後、突如として各種文献から墨家集団の記述は無くなり、歴史上から消えてしまった。なぜ墨家は忽然と消えてしまったのか。焚書坑儒の言葉に代表される秦帝国の思想統制政策により、集団として強固な結束をもっていた墨家は儒学者その他の思想派よりも早く一網打尽にされ、一気に消滅したと思われる。さらに漢代になると、墨家と激しく対立していた儒家が一大勢力となった為、墨家思想排斥の動きが加速したであろうことは想像に難くない」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%A8%E5%AD%90
わけです。
「想像に難くない」で終わっている文章については、当然のことながら、典拠は付されていませんが、墨家が、儒教と違って、本当の意味での易姓革命思想を唱えたことから、秦によって真っ先に抹殺されたとしても不思議ではありません。
しかし、秦から毛沢東政権に至る、支那文明における易姓革命の歴史を見ただけでも、墨家の思想こそ、支那文明をホンネベースで規定してきた思想である、と言ってよいのではないでしょうか。
すなわち、秦が掲げた法家の思想も、前漢以後清に至る歴代王朝が掲げた儒教も、タテマエでしかなかった、と言ってよいのではないか、ということです。(コラム#3401、4856、5632等参照。)
(儒教が、タテマエとして掲げられ続けたことには、後述の科挙制度が大きく与っていると私は思います。)
こういうわけで、この支那文明は、人間主義の日本文明とは対蹠的な、不信に満ちた文明であったのです。
そして、歴代の支那の皇帝達の、自分達自身以外の支配層、及び被支配層、に対する不信が生み出した制度が、科挙、宦官、そして均田法である、と私は考えるに至っています。
これらを個別に見ていけば、私の言わんとするところをご理解いただけることと思います。
まず、科挙ですが、「隋朝の楊堅(文帝)が初めて導入した<ものであり、>古くは貴族として生まれた者たちが高位を独占する時代が続いたが、家柄ではなく公平な試験によって、<貴族ではなく、>才能ある個人を官吏に登用する制度は、当時としては世界的にも非常な革新といえ・・・北宋の時代になると、科挙によって登場した官僚たちが新しい支配階級“士大夫”を形成し、政治・社会・文化の大きな変化をもたらした」わけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E6%8C%99
次に宦官ですが、「後漢では豪族の力が甚だ強く、それに対抗するために皇帝が手足として使った存在が宦官であ<り、>・・・唐においても藩鎮勢力に対抗するためと考えられる」わけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A6%E5%AE%98
更に、均田法ですが、「前漢では豪族による大土地所有が進み、これを嫌った政府は哀帝の即位・・・と共に土地の所有の上限額を決める限田制を実行しようとしたが、強い反対に遭い断念した<ところ、>武帝治世の末頃から、地方政府が困窮した民を募って官田を耕作させる経営を行い始め・・・この流れを受け、漢朝を簒奪した新の王莽は土地の私有を禁じ、全てを王田(国有地)とする王田制を打ち出した<が、>剰りにも空想的な施策であり、当然ながら大地主層からの激しい反発を受けた・・・<といった背景の下、均田制が>魏孝文帝治世の485年に初めて施行され、その後の東魏と北斉、西魏と北周、隋、唐に受け継がれ<た>」わけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%87%E7%94%B0%E5%88%B6
ちなみに、纏足は、男性による女性不信の産物であると見てよいのではないでしょうか。
「北宋以降、徐々に普及が始まった。・・・纏足の女性はうまく歩けないことから、女性支配の手段にもなっていたと考えられる<ところ、>バランスをとるために、内股の筋肉が発達するため、女性の局部の筋肉も発達すると<も>考えられていた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%8F%E8%B6%B3
ことは、纏足が、男性に性的サービスを中心とする諸サービスを提供する隷属的存在という女性観に基づき、男性が、女性が、自分に反抗できないように、或いは、他の男性と浮気したり他の男性のもとに走ったりできないようにするための手段であった、と考えられるわけです。
このような被支配層や女性に対する不信とは無縁であった日本で、拡大弥生時代に支那のありとあらゆる文物が継受されたにもかかわらず、科挙と宦官は導入すらされず、均田法は導入されたものの事実上実施されなかったことは、当然でしょう。
では、どうして、日本文明以外でも、例えば、プロト欧州文明で、科挙や宦官や均田法に相当するものが存在しなかったのでしょうか。
カール・ヤスパースの唱えた枢軸の時代は、人間主義への回帰の方法論が世界の各所において追求された時代であった、という私のかねてよりの指摘を思い起こしてください。(コラム#省略)
古代ユダヤで生まれたのが一神教であり、個人や一族郎党を超えた、超越的規範が提唱されたのに対し、古典ギリシャで生まれたのが、哲人支配者による、演繹科学的論理をもってする被支配層統治の提唱であり、この二つを統合し、普及させたのが古代ローマでした。
この古代ローマ文明を継受したのがプロト欧州文明であり、同文明においては、人々は、支配層であれ被支配層であれ、超越的規範及び演繹科学的論理でもって羈束されていたが故に、最低限度の信頼関係が、社会内において成立しえていた、と考えられることが、その理由です。
(ただし、古代ユダヤ文明も古典ギリシャ文明も、そして、古代ローマ文明も、更には、プロト欧州文明も、著しい女性差別文明であった点では支那文明と大同小異です。)
支那は、古代ユダヤ文明にも古典ギリシャ文明にも、更には古代ローマ文明にも、地理的に遠く離れていたこともあって、殆んど影響を受けることがなかったため、(その核心において人間主義そのものであるところの)仏教を限定的であれ継受したにもかかわらず、支配層と被支配層の間を含め、一族郎党を超えた信頼関係を醸成することが基本的にできないまま、現在に至っているわけです。
(続く)
支那文明の起源(その4)
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