太田述正コラム#7007(2014.6.19)
<中東イスラム世界の成り立ち(その7)>(2014.10.4公開)
4 欧米に対抗する試み
 (1)イスラム原理主義化
  ア 前史と総括
 「ハンバル学派・・・はスンナ派における・・・イスラーム法学の学派・・・の一つ。この法学派はアフマド・イブン・ハンバル(〔Ahmad ibn Hanbal。〕855年没)を起源とするが実質的には彼の弟子たちによって始められた。ハンバル法学は非常に厳格・保守的で、特に教義や儀式に関する問題を扱う。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%AB%E5%AD%A6%E6%B4%BE
http://en.wikipedia.org/wiki/Wahhabi_movement (〔〕内)
 サラフィー主義(Salafism)は、「初期イスラムの時代(サラフ)を模範とし、それに回帰すべきであるとするイスラム教スンナ派の思想。・・・シャリーアの厳格な施行を求め、聖者崇拝やスーフィズム、シーア派を否定する。祖は13世紀から14世紀にかけ中世シリアで活動したハンバル学派の・・・イブン・タイミーヤ[(1258/63~1328年)]であるとされ<る。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E4%B8%BB%E7%BE%A9
 <彼は>シーア派やギリシア哲学の影響を受けたイスラーム神学と神秘主義(スーフィズム)に反対し、その影響を排除することを唱えた。そのために、・・・シャリーアの絶対性を唱え、クルアーン(コーラン)とスンナこそが信仰の基本であり、このふたつをシャリーアの法源の第一とすべきであるとし、また、シャリーアの厳守と完全な実施がイスラム国家の指導者の義務であると主張した。・・・イスラム国家であってもこの義務を果たさない国家及び指導者は出自や資質を満たしても正当な指導者とは認められず、彼らに対するイスラム教徒の戦いにはジハードが成立すると・・・した。
 当時モンゴル帝国のイランにおける政権であるイルハン朝は、第7代君主ガザン以降・・・シーア派保護等、・・・イスラーム政権としての権威も主張し始めていた。イブン・タイミーヤはマムルーク朝の脅威であったイルハン朝との闘争はジハードであると主張した・・・。後世においては・・・〈サラフィー主義ジハード派〉・・・が西欧法を受容したイスラーム国家を否定して革命を起こすための名分に用いられ、彼らは既存のイスラーム国家を「現代のタタール(モンゴル)」と呼んでいる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%A4 ([]内も)
 「近世に生じたワッハーブ派<(後出)>はサラフィー主義から派生したもので、今もこれに含む考えもある。・・・
 サラフィー主義者は・・・基本的には非暴力的である。これに対しシャリーア施行などを実現するために武力行使をジハードと位置づけて優先する流れ(1990年代以降に台頭した)については、区別して『サラフィー・ジハード主義』(サラフィー主義・ジハード派)などと呼ばれ、アルカーイダ<(後出)>など日本メディアがイスラム過激派と表現するものの一部はこれにあたる。・・・
 ムスリム同胞団<(後出)>などもサラフィー主義を源流とするとみられるものの、より社会福祉を重視するなど経済や貧富の格差に注目する社会運動としての性格を強く築いてきた点が区別される(このため必然的に同胞団の社会政策は大きな政府となろう)。これに対しアラブの春以降の現在のサラフィー主義にはワッハーブ派であるサウジアラビアの影響も強く、利子を禁止するイスラム金融を重んじるほかは、商業や経済活動に肯定的で、ある意味資本主義的、市場経済的であり夜警国家指向ともいえる。このようにアラブの春後の各国では同胞団系とサラフィー主義系は別々の宗教政党を作り、つば競り合いを演じた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E4%B8%BB%E7%BE%A9 (〈〉内も) 前掲
⇒サラフィー主義者とムスリム同胞団の違いについての記述は、なかなか秀逸ですね。
 本件に限らず、中東イスラム世界についての日本語ウィキペディアの出来は良いと思います。
 殆んど、英語ウィキペディアを参照する必要がありません。
 その背景には、日本にとっての中東産油の重要性があるのでしょうね。(太田)
  
  イ サウディアラビア/ワッハーブ派
 ワッハーブ派(Wahhabism)は、「一般にイスラム原理主義と呼ばれて知られている復古主義・純化主義的イスラム改革運動の先駆的な運動<であるところ、>・・・1745年にムハンマド・イブン=アブドゥルワッハーブ《(Muhammad ibn Abd al-Wahhab。1703~92年)
http://en.wikipedia.org/wiki/Muhammad_ibn_Abd_al-Wahhab 》・・・はワッハーブ派の守護者を意味する聖剣・・・をナジュド<(Najd)>の豪族であったサウード家のムハンマド・イブン=サウード【(Muhammad bin Saud。~1765年)
http://en.wikipedia.org/wiki/Muhammad_ibn_Saud 】に授け盟約を結んだ。これ以降から現代にいたるまでサウード家はワッハーブ派の守護者となり、教えを受け入れてワッハーブ派を保護し、ワッハーブ派の運動を広げつつ勢力を拡大した。・・・
 ワッハーブ派は現在もサウジアラビアの国教であり宗教警察が国民に対して目を光らせている。また、王家が国庫を私物化しているという不満を受け止める存在ともなっている。・・・
  現在では・・・ワッハーブ派の唱えるジハードを主張すればサウジアラビア政府から弾圧されるという状況に追い込まれている。また、西洋的人権擁護や女性の権利擁護など本来のワッハーブ派の主張と相容れない法制度が次々と施行され、反対すれば弾圧されるという状況になっている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%83%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%96%E6%B4%BE
 イスラーム法的権利擁護委員会(Committee for the Defense of Legitimate Rights=CDLR)は、「6人の学者によって1993年・・・にリヤドで設立された委員会で、・・・サウ<ディ>アラビアで近年になって施行された各種の近代法に対して、<同国が>憲法と定めるクルアーンとスンナに違反していると主張しており、 シャーリアに基づく人権擁護を行うように政府と民衆に働きかけている。 また、サウード王家を<米国>の傀儡であると批判している。・・・
 設立後まもなく、政府によって非合法組織に指定されメンバーは公職追放、軟禁、投獄された。
 1994年・・・に・・・メンバーはイギリスに亡命し・・・た。 <彼ら>メンバーはサウ<ディ>アラビア国籍を剥奪され<たが、>政治難民として・・・ロンドンの亡命事務所で活動している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%9A%84%E6%A8%A9%E5%88%A9%E6%93%81%E8%AD%B7%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A
⇒私は、ワッハーブ派は、オスマントルコの部分的欧州化の試み(後述)や欧州/欧州外延勢力によるオスマントルコの弱体化に対する中東イスラム世界の危機意識が生み出した、と考えています。
 なお、宗政一致国家・・スターリン主義国家も宗政一致国家と言える・・は、宗教(イデオロギー)の純粋性を保てなくなる、というのは公理のようなものです。(太田)
  ウ ムスリム同胞団
 ムスリム同胞団(<イスラム同胞団=>Muslim Brotherhood)は、「1928年に、西洋からの独立とイスラム文化の復興を掲げてハサン・アル=バンナー(Hassan al-Banna、1906年~1949年)によってエジプトで結成された。・・・
 ムスリム同胞団の最大の特徴は、・・・モスクの建設や運営などの宗教的な活動のみならず、病院経営や貧困家庭の支援など草の根的な社会慈善活動をはば広く実践したことである。・・・
 ムスリム同胞団の・・・サイイド・クトゥブ(Sayyid Qutb、1906年~1966年)は、・・・バンナー亡き後の1950年代から60年代からのナーセル<(ナセル)>政権との対立の時代に活躍した理論家であり、ナーセルによって投獄されるという苛酷な環境のなかで思想を先鋭化させ、「イスラム社会の西洋化と世俗化を進めるナーセルのような指導者が統治し腐敗と圧制が蔓延する現世は、イスラム教成立以前のジャーヒリーヤ(無明時代)と同じであり、武力(暴力)を用いてでもジハードにより真のイスラム国家の建設を目指すべきだ」とするクトゥブ主義・・・(Qutbism)を唱え・・・た。・・・これを危険視したナーセルはクトゥブを煽動罪で逮捕し再び投獄、1966年に・・・処刑する。・・・
 2011年の革命後、・・・2012年・・・に行われた大統領選挙では<同胞団の>・・・ムハンマド・ムルシー<(ムルシ)>・・・が当選した<が、>・・・2013年・・・クーデターによりムルシー<は>大統領権限を失<った。>・・・
 ムスリム同胞団は、エジプト以外の国でも隆盛し、シリアでもスンナ派の支持を得て成長した。・・・アラウィー派のハーフィズ・アル=アサド大統領・・・<は、>1982年、ムスリム同胞団の拠点であ・・・ったハマーに総攻撃を加え・・・一般市民の大多数が巻き添えで死傷する<とともに>、同胞団員の多くがシリア当局に逮捕されて拷問を受け、処刑された(ハマー虐殺)。・・・
 パレスティナでイスラエルへの抵抗運動を続けているハマース<(ハマス。後出)>の母体もムスリム同胞団である。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%A0%E5%90%8C%E8%83%9E%E5%9B%A3
⇒ムスリム同胞団がエジプトですぐ政権の座を失ったことは、教義の純粋性を維持する観点からはむしろ幸運だったのかもしれません。
 ハマスが、ガザ「政権」を「返上」して、PLOの庇を借りることにしたのは、このような観点からも、賢明な動きであったと見るべきでしょう。(太田)
  エ アル・カーイダ
 ウサーマ・ビン・ラーディン(オサマ・ビンラディン)(1957~2011年)は、サウディアラビア「出身<であり、>・・・元々ワッハーブ派に属する信徒であったとされる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%83%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%96%E6%B4%BE 前掲
 彼は、「ジッダのキング・アブドゥルアズィーズ大学・・・に入学するが、・・・ムスリム同胞団に加入、サイイド・クトゥブの思想に引き付けられる。さらに同大学で教鞭をとっていたムスリム同胞団のアブドゥッラー・アッザームの教えを受け、師と仰ぐようになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3
 「アブドゥッラー・ユースフ・アッザーム(・・・Abdullah Yusuf Azzam、1941年~1989年・・・)は、スンナ派のパレスチナ人の神学者で、ソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻に対するアフガニスタンへのアラビア人のムジャーヒディーン支援とその組織化の中心人物である。ウサーマ・ビン=ラーディンの師であり、ビン<・>ラーディンがアフガニスタンに赴いた契機を作った人物として有名である。またターリバーンの創設者ムハンマド・オマルが多大な影響を受けたことでも知られる。・・・
 パレスチナ難民となりヨルダンに脱出、そこでムスリム同胞団に参加した。ヨルダンではヤーセル・アラファート率いるパレスチナ解放機構(PLO)の世俗性やローカル性に幻滅、西洋の植民地として引かれた国境に関係のない汎イスラムの思想に傾倒するようになる。この思想は後にハマース創設に繋がっていく。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%83%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%83%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%A0
⇒中東イスラム世界のフツーのイスラム教徒達・・全世界のイスラム教徒達まで広げればなおさらです・・の間での、原理主義的なワッハーブ派やイスラム同胞会のシンパは少数派であるところ、この両者の系譜を引き、ある意味、この両者の嫡流たる過激派で、極め付きの少数派であるところの、アルカーイダ系の諸集団・・この中には、破門されたとはいえ、Isisも含まれます・・が、中東イスラム世界やインド亜大陸、更にはサハラ以南のアフリカ大陸におけるイスラム世界という広域にわたって、武力紛争を引き起こしているわけです。
 その帰趨を現時点で予想することは困難ですが、私は、彼らの引き起こした武力紛争の結果、イラクとシリアの現在の国境線が消滅する可能性がかなり高いし、アフガニスタンとパキスタンの現在の国境線が消滅する可能性も否定できないけれど、アルカーイダ系諸集団は、早晩とるに足らない存在になる、と希望的観測を交え、考えています。
 ワッハーブ派は、遅々たる歩みではあるものの、その守護者たるサウディアラビア政府の世俗化(脱ワッハーブ派)の動きは留めることはできないと思われることから、やがて、名存実亡状態になる、と私は考えています。
 イスラム同胞団については、どこの国でも、今後政権の座に就くことはできないと思われ、次第に衰亡していく、と私は考えています。(太田)
         
(続く)