太田述正コラム#7011(2014.6.21)
<第一次世界大戦がもたらしたもの(その2)>(2014.10.6公開)
 『大洪水』は、ボルシェヴィズム(Bolshevism)がこの米国が指導する全球的資本主義の変貌(transformation)に対する深刻な脅威であったというあらゆる観念の正体を暴露(debunk)すること<によってそれらが誤りであったことを示した点>においてとりわけ良い出来だ。
 その反対に、この本は、新しいソヴィエト国家の1920年代における弱さ、とりわけ欧州でのそれ、及び、新秩序についての米国人のヴィジョンにコミットした人々とそれに反対する人々との間の力の根本的非対称性、を説明(demonstrate)している。
 1925年時点までには、その50年前の諸役割の驚くほどの逆転があった。
 すなわち、元は諸大国であった、独、露、仏は、今や大西洋の対岸の巨人の前の小人達でしかなかった。
 しかしながら、トゥーズに言わせれば、ボルシェヴィキ達は、欧米の諸利益に他の諸方法で脅威を与えていた。
 コミンテルン(Communist International)は、歴史上、明白な前例のなかったところの、諸国境を超えたイデオロギー的コントロールのための組織的インフラを提供した。
 これは、強力な革新(innovation)だった。
⇒イデオロギーの定義は一様ではありませんが、「世界観」ないし「政治理念と政治目的が何らかの形において結合したもの」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%82%AE%E3%83%BC
と解するとして、前者であれば、ほぼあらゆる宗教がイデオロギーであるということになりますし、後者であっても、これまたあらゆる宗教が政治理念に対して何らかの影響を与えるところ、このような影響を及ぼされた政治理念が政治目的と結合することもありえ、その限りにおいて、やはり、あらゆる宗教はイデオロギーたりうることになります。
 そして、世界宗教、とりわけ積極的布教を旨とする世界宗教は、「諸国境を超えた・・・コントロールのための組織的インフラを提供する」のが通例であることからすれば、「ボルシェヴィズム」の「コミンテルン」の前例など山ほどある、と言わざるをえません。
 欧州文明が生み出した民主主義独裁の諸イデオロギーは、キリスト教の変形物である、という私のような立場からすればなおさらです。
 もとより、私の言う民主主義独裁諸イデオロギーのうち、ナショナリズムは、ネーション(民族)が、「諸国境を超え」て存在している場合を除けば、基本的に「諸国境を超え」ないことから、「ボルシェヴィズム」が「諸国境を(明確に)超えた」最初の民主主義独裁イデオロギーであったことは確かですが・・。(太田)
 
 何よりも、そこには、モスクワの、支那の潜在的重要性に対する感受性、及び、ユーラシア大陸が中国共産党への支援を通じて米国に指導された海に囲まれた(seabound)自由主義秩序の競争相手たりうる大陸的権力ブロック(power-block)へと変換しうるという感覚があった。
 要するに、『大洪水』は、我々に1920年代の在来型の見方の全球的ヴィジョンの純正なる(genuine)修正(revision)・・それは、この新しいパックス・アメリカーナの諸敵がいかに弱く、パックス・アメリカーナの支持基盤がいかに広範であったか、を示す・・を提供しているのだ。
 それは、どうしてそれ<(新しいパックス・アメリカーナ)>が失敗したかを理解することをより必須にする。
 特に、1920年の不況を乗り越えることに成功しながら、その10年後のウォール街の大暴落(crash)の後日譚においてそれが崩壊(collapse)したのか<を理解することを>。
 トゥーズは、米国の全球的至上性(supremacy)への道には紆余曲折があったこと、そして、その道の処々で待ち受けていた諸敵の中に米国自身もあったこと、を我々に思い出させる。
 国際金融システムへの信頼を回復させるために企画された1933年のロンドン会議(London 1933 conference)の時点までに、ローズベルトは、自国における不況から脱出するために、米国の世界的役割を犠牲にせざるをえないことを決意していた。
 彼の介入のおかげで、金本位制は永久に崩壊し、諸国は、彼らの諸戦債の返済を諦め、その代わり、不況による失業と苦しみ(misery)との闘いに焦点を当てた。<(注1)>
 (注1)「<1933年>6月12日から7月23日まで・・・ロンドンのケンジントン地質学博物館で国際金融会議が開かれ・・・た。このロンドン国際金融会議は大失敗に終わ<っ>た。
 会議をサボタージュしたのは<米国>のフランクリン<・D・ロ>ーズベルト大統領で<ある>。
 ・・・<米国>は1929年のNY市場の大暴落の後、日本をはじめとする諸外国に「通貨戦争」で先を越され、不況が長引いてい・・・た。そこで<1933年3月4日に
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88 >大統領に就任した<ロ>ーズベルトは次々に「禁じ手」の政策を繰り出し、ハチャメチャな金融・財政政策を講じ<る。>・・・
 <以下、『Once in Golconda』 John Brooks Chapter Seven: Gold Standard on the Booze P150~157からの引用。>
 「ドルが下がり始めたのは<ロ>ーズベルトが大統領に就任した2日目からである。この日、<ロ>ーズベルトは臨時措置として<金>の輸出を止めるとともに<金>の蓄蔵をやめると宣言した。<ロ>ーズベルト政権は「これはあくまでも臨時の措置である」とし、とりわけ「臨時」という言葉を強調した。
 この発表があった日はちょうど<ロ>ーズベルト大統領が臨時「銀行休業日」宣言をした期間中であったから、ウォール街の銀行家や証券業者は自分の身の上を案じる方が先で、<金>の輸出停止など誰も気に止めなかった。だいいち「銀行休業日」さえ終われば<金>の禁輸措置も当然解除されるものだと皆が信じて疑わなかった。・・・
 <ローズベルト>は金融知識ゼロのところへ持ってきて、経済学者などの振り回す理論より、自分のお金に対する直感の方が正しいと確信していたという。・・・
 4月になると・・・農作物の価格は1926年頃の水準の4割程度まで落ち込み、その結果、農民がその年の収穫を全部売ることに成功したとしてもローンの払いを返すことは不可能になったのだ。・・・
 4月18日に<ロ>ーズベルトは・・・閣議<で>・・・「わが国は金本位制から降りることにした」と宣言した。・・・それにしても奇異だったのはウォール街からは純粋な経済理論の見地からの金本位制離脱に対する反対や危惧の声はぜんぜん聞かれなかった点である。・・・
 こうしてドルは「投機の対象」に成り下がった。<ロ>ーズベルトの金本位制離脱宣言の直後、ドルは・・・下落し・・・た。肝心の国内の穀物価格については若干価格が上昇した。これを見て農家は安堵した。
 しかし<英国>とフランスの通貨当局はショックを受けた。英国はドル安が世界の貿易を鈍化させることを懸念した。フランスは<米国>の後を追って金本位制を離脱することは避けられないと考えた。<ロ>ーズベルトの最大の関心事は内政、それも農業部門であり、国際協調など二の次にしか考えていなかった<わけだ>。」」
http://markethack.net/archives/51651798.html
⇒これだけでも、ローズベルトは、米国最悪の大統領という烙印を押されてしかるべきでしょうね。
 それにしても、自由民主主義国においても、大統領制は、大統領にとんでもない人物を選出してしまう場合があること、政治任命制/猟官制によって継続性と専門性が担保されるキャリア官僚制が整備されにくいこと等から、危険極まりない、と改めて思います。(太田)
 大西洋の両側での一つの帰結は、社会福祉と金融的健全さ(monetary health)の保証者(guarantor)としての中央政府(central state)の力の大いなる増大だった。
(続く)