太田述正コラム#7013(2014.6.22)
<第一次世界大戦がもたらしたもの(その3)>(2014.10.7公開)
パックス・アメリカーナを引き裂き、自分達の力を外国で振るう(reasser)ことを欲した面々・・それが独、日、伊の拡張主義者達、ないしはソ連のスターリンのいずれであれ・・には、米国の衰弱(collapse)は短期間の機会の窓が提供された。・・・
→日本がここに登場させられていることだけで、トゥーズは歴史学者失格です。(太田)
この投機的事業(venture)がいかに無謀で、それが前提としていた国家的努力がいかに劇的で、いかに不可避的にそれがこの諸体制を駆動させ暴れ馬(tiger)に乗って全面的動員の道を突き進ませたかだ。
米国の挑戦は、ファシストと共産主義の諸体制に、前例のない政治的徴兵(enlistment)の諸形態を考案することを強いた。
ヒットラーとムッソリーニの米国の力の圧倒的な規模についての感覚が、彼らの世界観の最も重要な諸様相の一つ・・彼らの、時が常に失われつつあるとの一刻も猶予がないとの感覚・・を説明することに資する。・・・
米国が1945年にその全球的役割を最終的に抱懐するに至った時、同国は、初めて、海外における経済的影響力と自国における大きく強力な連邦政府の地固めとを結合させることを認めるという方法によって、それを行った。」(A)
→いつの間にか日本が記述の中から姿を消していることは、トゥーズが、欧米の社会通念に則り、深く考えずに、日本をファシスト国家やスターリン主義国家並びで列挙しただけであったことを示唆しています。(太田)
(3)エピローグ
「今日の危機諸圏である、ウクライナ、中東、東アジアは、第一次世界大戦の中から出現したのであって、1916年から1920年代初頭にかけての全球的政治は、今日と全く同じ地理を巡って行われたところだ。
ロシアの1991年以来の弱体化(enfeeblement)、及び、欧米がロシアが受容することを期待したものは、(ブレストリトフスク(Brest-Litovsk)で)ドイツによって押し付けられた取り決め<(注2)>さえよりも懲罰的だ。
(注2)「<1917年11月、>ボリシェヴィキ政府は十月<(ユリウス暦)>革命によって政権を奪取した。旧ロシア帝国領であったウクライナ・・・で最大の勢力を持っていたウクライナ中央ラーダ<は、>・・・ウクライナ人民共和国の成立を宣言し、これが事実上のウクライナの独立宣言となった。・・・ロシアの生命線であったウクライナの喪失を阻止するため、ボリシェヴィキは早急なる講和条約の締結に迫られた。ロシアと中央同盟国との和平交渉は12月・・・ブレスト=リトフスクにおいて始められた。・・・一方、中央ラーダは・・・ロシアとは別に中央同盟国側との交渉を開始した。・・・1918年2月9日、中央ラーダ・・・は中央同盟国との講和条約となる「ブレスト=リトフスク条約」を結び、独墺軍が中央ラーダ軍とともに反ボリシェヴィキ戦線を張ることで一致を見た。<これで、>・・・ウクライナ・・・は初めて自国の独立が国際的に認められたことになった。ウクライナは、中央同盟国の軍事協力の見返りに、100万トンの穀物の提供を約束した。・・・<結局、>ボリシェヴィキ政権は<追い詰められ、>・・・1918年3月3日、・・・中央同盟国との講和条約となる・・・<もう一つの>ブレスト=リトフスク・・・条約<を締結し、これ>によってロシアは第一次世界大戦から・・・離脱し、さらにフィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、ウクライナ<等>・・・に対するすべての権利を放棄し<し、>・・・次々と独立国家が誕生した。・・・なお、ウクライナでは4月・・・に中央ラーダ政府が・・・政変によって倒され、かわって・・・ウクライナ国が成立し<。>6月にはロシアと<この>ウクライナ国は休戦条約を締結し・・・た。・・・
その後、1918年11月・・・には、中央同盟側の降伏<によって>第一次世界大戦<が>終結<し、>・・・1919年に調印されたヴェルサイユ条約でドイツはブレスト=リトフスク条約の失効を受け入れ、1922年のラパッロ条約では、ソ連・ドイツ双方が、協議されたすべての地域に対する権利と賠償を相互に放棄することが合意された。・・・
<しかし、>バルト海沿岸部やポーランドに帰属された広い領域は、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランドの領土となり、第二次世界大戦までソ連の手を離れることになった。・・・
ブレスト=リトフスク条約により旧ロシア帝国領が大きく割譲された<ことに対し、>・・・ボリシェヴィキ政府には・・・国内のあらゆる層から非難が向けられ<ることとなり、>・・・この争いに乗じて協商国側<等>が干渉し、2年におよぶ白軍との内乱が続いた(ロシア内戦)。・・・1920年には西ウクライナを除くウクライナの大部分は赤軍の働きとスパイの工作活動によってボリシェヴィキ側に奪回された・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%88%EF%BC%9D%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AF%E6%9D%A1%E7%B4%84
2014年のウクライナ危機は、1918~1920年の第一次ウクライナ危機<(注3)>の鏡像として歴史が自分自身を繰り返しているのだ。」(B)
(注3)1917~1921年のウクライナ独立戦争(Ukrainian War of Independence)のことを指していると思われる。この戦争ないし危機は、マクロ的に見れば、第一次世界大戦の一環として、そしてロシア内戦の一環として展開した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ukrainian_War_of_Independence
⇒ウクライナ、中東は分かりますが、東アジアがどうしてここで登場するのか理解に苦しみます。第一次世界大戦後の「昨日」の危機諸圏であるイタリア/ドイツ、及びロシアがそれぞれファシズムとスターリニズムを生み出し、それが戦間期の支那、ひいては東南アジアや日本の現在を規定することになった、というのであれば、ある程度分からないでもありませんが・・。(太田)
3 終わりに
今まさに、ウクライナと中東で、第一次世界大戦の最後の後始末とも言える「戦争」が同時並行的に行われていることは感慨を催させます。
結局のところ、これらを含め、第一次世界大戦から今日に至る、殆んど全ての国際問題の原因を作り出した責任は、好んで第一次世界大戦に参戦して協商国側を勝利に導き、戦後において、ドイツに過酷な戦争賠償を課すことに同意し、ロシア内戦にまともに介入しなかったことでボルシェヴィキを生き延びさせ、その後のスターリン主義に宥和的姿勢を貫き、世界大恐慌を引き起こし、その挙句、(本シリーズで取り上げたところの)世界の金本位制を過早な崩壊に導き、更には、スターリン主義と東アジアで対峙していた日本の足を掬って東アジア及び東欧にスターリン主義を招き入れた、米国にあると言うべきでしょう。
(完)
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第一次世界大戦がもたらしたもの(その3)
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