太田述正コラム#7017(2014.6.24)
<中東イスラム世界の成り立ち(その9)>(2014.10.9公開)
——————————————————————————-
<脚注:タンジマートの部分的継受性>
タンジマートは欧州文明の全面的継受の試みではないのか、という予想される問題提起に、念のため答えておく。
「19世紀に入ると国勢の衰退したオスマン帝国に、キリスト教徒の列強君主に対抗してオスマン皇帝のスンナ派イスラム教徒に対する宗教的権威の優越が期待されるようになり、オスマン家の君主にはスルタンの世俗的権力とカリフの宗教的権威が兼ね備えられているという主張が生まれた(スルタン=カリフ制)。9代セリム1世がマムルーク朝を滅ぼしたとき、マムルーク朝の庇護下にあったアッバース朝の末裔からカリフ権を譲り受けたという伝説は、この目的のために創作されたものと考えられている。・・・
1876年に制定された<ミドハト>憲法はこれを条文として盛り込み、オスマン帝国の君主はオスマン家の当主によって世襲され、世俗政治の最高権者であるスルタンと、ムスリムの宗教的な指導者であるカリフの権能を兼ねることが明文化され<た>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%AE%B6
このように、皇帝が世俗的な最高権威と最高権力の担い手たるとともに、しかも、(イギリスのように)宗教的な最高権威の担い手たることにとどまらず、宗教的な最高権力の担い手たることを宣言したことは、欧州文明における皇帝/国王と法王の分離との重大な乖離であり、全面的継受とは言えない決定的理由だ。
このことは、せっかく進行していたオスマントルコの世俗化のプロセスを遅らせることになり、新制トルコにおいて、その反動たる、超世俗的ケマリズムの時代を経て、最近のイスラム系の公正発展党の政権掌握
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B3
にもつながる禍根を残すことになった、と私は考えている。
——————————————————————————-
・エジプトの初期ムハンマド・アリー朝
これについては、以前(コラム#5368で)、同じウィキペディアに拠りつつ、少し取り上げたところですが、重複をいとわずに再度、やや詳しく取り上げることにしました。
「ムハンマド・アリーの実施した政策について山口直彦は、「日本の明治維新や清の洋務運動、さらには現在の開発途上国の経済自立・工業化政策を先取りする画期的な試みであった」と評している。加藤博は「迫り来る西欧列強の進出のなかで非西欧世界が自立的な近代国家建設を目指した、最も早い試みの一つであった」と評している。さらに加藤や牟田口義郎も、ムハンマド・アリーの政策は明治維新と同様「和魂洋才」の精神に基づくものであったと評している。山内昌之は加藤や牟田口と同様の見解に立ちながら、近代的国営工場の経営に失敗した点が明治維新との違いであると指摘している。・・・
<しかし、>山内昌之によると「アラブ人でもなくエジプト人でもなく土着の民に愛情の薄かった」ムハンマド・アリーは民生安定の視点に欠けていた。・・・
<実際、>増加した歳入が国民の福祉のために用いられることはなく、彼らは過重な税負担や兵役、強制的な労役を課された。・・・
<但し、>ムハンマド・アリーの改革は、エジプトに大幅な人口増をもたらし<ている>・・・。19世紀初頭の時点で246万人、1821年に253万人余りであった人口は1847年には447万に達した。
しかし通商産業、とくに工業分野における政策は、「結果的には総じて失敗に終わった」とも評される。その最大の原因は第二次エジプト・トルコ戦争に敗れエジプトが政治的自立を失ったことに求められる。敗戦によりムハンマド・アリーは、低率の輸入関税を定め専売制を禁止する通商協定の実施を余儀なくされ、<欧州>の製品との自由競争にさらされたエジプトの工業は衰退の一途を辿った。・・・
H.A.リブリン<(注8)>は以下のように指摘している。
(注8)H.A.Rivlin。オックスフォード大提出論文をハーヴァード大出版会から自費出版している
http://www.abebooks.co.uk/servlet/SearchResults?an=H.%20A.%20Rivlin&tn=The%20Agricultural%20Policy%20of%20Mahomet%20Ali%20in%20Egypt%20-%20A%20thesis%20Oxford%20University&cm_sp=mbc-_-ats-_-all
ところをみると、英国人である可能性が高い。
「ムハンマド・アリーの治下で国民所得は増加したが、農民の生活水準の改善と向上はみられなかった。かれは、しばしば民衆の福祉を口にのぼらせたが、社会的関心を実行に移すときは、民衆への新しい負担と圧殺的搾取を添加するだけに終わった。」・・・
<このように、>ムハンマド・アリーのとった政策は近代的である反面専制的・強圧的な要素も持っていた。
<英国>政府、とりわけパーマストン< http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AB_(%E7%AC%AC3%E4%BB%A3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E5%AD%90%E7%88%B5) >がムハンマド・アリーの政策を前近代的、非民主的ととらえたことは、より近代的な改革を行いつつあったオスマン帝国を支持する一因となった。」」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC
さて、私に言わせれば、アリーの政策について、山口直彦が明治維新の先取りと評したのは誤りで洋務運動の先取りとだけ評すべきでしたし、加藤博が自立的な近代国家建設を目指した最も早い試みの一つであったと評したのは誤りですし、加藤や牟田口義郎が明治維新と同様「和魂洋才」の精神に基づくものであったと評したのも誤りですし、山内昌之が加藤や牟田口と同様の見解に立ちながら、近代的国営工場の経営に失敗した点が明治維新との違いであると評したのも間違いです。
山口直彦(1962年~)については、「社会学者。専門は中東および北アフリカの経済、政治、近現代史」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E7%9B%B4%E5%BD%A6
で、『エジプト近現代史』という著作がある
http://book.akahoshitakuya.com/b/4750322385
ということしか分からなかったのですが、加藤博(1948年~)が「1974年一橋大学商学部卒業、1976年同大大学院経済学研究科修士課程修了。1977年から79年までカイロ大学留学。1980年一橋大学大学院経済学研究科博士課程満期退学。・・・1982年から1984年までカイロ大学留学。83年「エジプトにおける私的土地所有権の確立」で一橋大学経済学博士。」一橋大助教授、教授を経て名誉教授、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%8D%9A
牟田口義郎(1923~2011年)が、東大仏文卒で「カイロ(エジプト)支局長、パリ(フランス)支局長を務め、また論説委員を務めた。1982年退社後、成蹊大学教授、東洋英和女学院大学教授、中近東文化センター理事長を歴任。中東・アラブ地域の現代史に詳しく、地中海世界を含めての著書・翻訳書を多数出版した」(注9)、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9F%E7%94%B0%E5%8F%A3%E7%BE%A9%E9%83%8E
山内昌之(1947年~)が、北大卒、同院博士課程(後博士)、カイロ大学客員助教授(1978~80年)、東大助教授、教授、名誉教授、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E6%98%8C%E4%B9%8B
という経歴であるところ、それぞれ、関わりの最も深い国であるエジプトに対するシンパシーが、恐らくは日本の歴史に対する認識不足ともあいまって、彼らの目を曇らせているのでしょう。
(注9)牟田口のカイロ支局長時代と私の父親の重信の東洋綿花(当時)カイロ支店長の任期は重なっており、牟田口宅には、私より少し年下の(私同様の)一人息子がいたこともあって、よく遊びに行ったものだ。その折、同家書棚を埋め尽くしていた膨大な洋書群と、彼の一人息子の門前の小僧的な古代エジプト史通ぶりに、私は驚嘆したものだ。
亡くなられていたことに全く気付かなかった。
この際、心からご冥福を祈りたい。
鬼籍に入っている牟田口以外の3名に、トルコとエジプトのそれぞれの現状の(あくまで相対的な話ですが)、近代化の観点からの天と地ほどの違いをどう説明するのか聞いてみたいところです。
多分、答えに窮するのではないでしょうか。
私なら、以下のように答えます。
一、タンジマートもアリーの政策も、いずれも、アングロサクソン文明ではなく欧州文明の継受を目指したこと、しかも、全体的継受ではなく部分的継受・・後者にあってはつまみ食い的継受と言うべきか・・であった点では大差ない。
すなわち、二重の意味において、そもそも問題があった。
二、しかし、アリーの政策には、それに加えて以下のような問題があった。
・外国人支配者であったことからも、民本主義的観点が欠落していた。(非民主的)
・富国が強兵のための手段でしかなかった。(前近代的)
これでは、アリーの政策の成功する可能性は、タンジマートが成功する可能性よりも顕著に低かった、と言わざるをえません。
ちなみに、当時のエジプトが関税自主権等を失ったことは、明治期の日本が関税自主権を奪われていたことと大同小異であり、これをもって、エジプトの工業の離陸(ひいては近代化)が不可能になった、と結論付けることは、日本が工業の離陸に成功したこと一つとっても、不適切でしょう。
驚くべきは、当時の英国政府が、まさに、以上記したようなことを踏まえつつ、私と同様の判断を、タンジマートとアリーの政策について下していたことです。
(続く)
中東イスラム世界の成り立ち(その9)
- 公開日: