太田述正コラム#0262(2004.2.17)
<危機の韓国(その1)>

1 かつての韓国の知識人の考え方

 私の韓国人との出会いは1974年~76年の米国のスタンフォード大学留学時にさかのぼります。
 最初の夏学期は独身寮に入り、米国人の大学院生と同部屋だったのですが、ビジネススクールや政治学科の授業が始まった秋学期からは、夫婦用の高層マンションスタイルの寮に移り、大学の勧めに従って、そのうちの一戸を韓国人のユン・チャンホ君と一年半にわたってシェアしました。彼が寝室をとり、私はリビングをとりました。バスルームとキッチンは共用スペースでした。
 彼とは学科が違うし、食事も基本的に学生食堂で別々にとるので、互いに殆ど出会うことがなかった上、彼は私を避けるようにしていました。彼が受けた反日教育のせいでしょう。しかも、日韓の生活水準の差はまだ歴然としていた頃でした。(私の留学手当は、彼がもらっていたフルブライト奨学金より高く、その上私には給料も出ていました。)米国人学生から買った8気筒のフォード・ムスタングを乗り回す私を、車のない彼は、まぶしそうに見つめていたものです。
ある日、その彼と寮の部屋で歴史の話になりました。(ユン君も歴史の専門家ではありません。)
 その時彼が、「任那日本府なるものは存在しなかったし、当時の日本は朝鮮半島におよそ何の影響力も持っていなかった」と言ったので、私はびっくりしました。私は、「日本府がなかったというのは初耳だがその通りなのかもしれない。しかし、そもそも、当時は朝鮮半島南部から日本の九州にかけては同一の文化圏だったのではないか。だから、どちらがどちらに影響力を持っていたと言う必要はないのではないか」、と反論したのですが、彼は全く聞く耳を持ちません。「当時の日本は後進地域であり、先進地域であった朝鮮半島(の南部)と同一の文化圏に属すことなどありえない」の一点張りでした。
 私は、日韓の歴史に関しては、韓国人とは全く対話ができない、という印象を持ちました。
 それでも私が帰国する頃には、結構彼も打ち解け、彼のお父さんは裁判官で、お父さんの書架に並んでいる法律書は日本語の本ばかりだ、といった話も聞かせてくれるようになっていました。しかし、日本の植民地時代の話は互いに遠慮してか、ついに一度も出ずじまいでした。
 昨年、上垣外憲一「倭人と韓人―記紀からよむ古代交流史 」(講談社学術文庫 2003年11月)を読んで、ユン君とのやりとりを思い出しました。上垣外氏が若かりし頃、韓国の歴史学者達の、学者とは到底思えない非実証的な主張に接し、私と同じような感想を持ったことが書かれており、苦笑させられました。
 ユン君は、その後、スタンフォード大学で経済学の博士号をとり、世銀を経て、現在韓国の高麗大学の経済学部教授をしています。

 次は、1988年の一年間の英国国防省の大学校(Royal College of Defence Studies)留学の時です。この時は、私はRoyal College当局によって、韓国から留学していたキム・ドンシン准将と同じ場所の英陸軍官舎を割り当てられたことから、家族ぐるみのお付き合いをしました。もちろん、毎日Collegeの授業でもキムさんとは一緒です。
 キムさんは、韓国軍の整備を急ぎ、北朝鮮とパリティに達した時点ですみやかに駐韓米軍を撤退させるべきだというのが、かねてよりの自分の持論だと公言されていました。私は、在日米軍司令官が兼務する米第5空軍司令官隷下の空軍部隊には、在韓米空軍部隊も含まれる(当時。現在は違う)こと等を指摘し、駐韓米軍は北朝鮮に対処するだけでなく、ソ連や中国もにらんでいる、と何度も注意を喚起したのですが、彼はソ連や中国の「脅威」などおよそ眼中になさそうなのです。(むろん、彼はソ連の崩壊を予見していたわけでもありません。)
 どうやらこのキムさんの持論は、単なる個人的見解ではなかったとみえ、彼はその後とんとん拍子に出世を遂げ、制服組のトップになったかと思ったら、更に金大中政権の時に国防大臣に就任しました。
 キムさんは2002年に、黄海での北朝鮮艦艇との銃撃戦の際の韓国海軍の対応の不手際の責任をとって国防大臣を退かれておられます。

 さて、友人であることに免じて、ユン君とキムさん(君付けは年下、さん付けは年上、というだけの理由です)の考え方に共通する問題点をあえて指摘させてもらうと、それは、
ア 頑固なまでに自国(韓国)中心のナショナリストであって、
イ あまり他国の立場に立って物事を考えない(日韓提携を希求する日本や覇権国としての責任を負う米国の立場にほとんど思いを致さない)し、いわんや、 
ウ 世界のことなど基本的に眼中にない(世界の平和と繁栄の維持、または共産主義の封じ込めもしくは自由と民主主義の普及等を、韓国自身にとっての重要課題であるとは必ずしも考えない)、
点です。
 これは二人の考え方というよりは、韓国の伝統的な思考様式ないし戦後の韓国の公教育がもたらした考え方であって、恐らく、韓国の知識人の大多数に共通する考え方であり問題点ではないかと私は見ていました。
 このような考え方は、戦後の日本の知識人にも見られたところですが、韓国ほど極端ではなかった、と思います。

 それでは、最近の韓国の知識人の考え方はかつての韓国の知識人の考え方とはどこが違うのでしょうか。

(続く)