太田述正コラム#7029(2014.6.30)
<欧州文明の成立(続)(その3)>(2014.10.15公開)
いや、英国教会(Church of England)の樹立という、れっきとした宗教改革をイギリスは15世紀前半に行っているではないか、また、清教徒革命とも呼ばれる宗教的内戦をイギリスは16世紀央にやっているではないか、やはり、イギリスは欧州に比べて早熟だっただけではないのか、という疑問を投げかける方がおられるかもしれません。
まず、1536年の英国教会の樹立についてですが、これは宗教改革とは言えません。
なぜなら、英国教会を樹立したヘンリー8世は、プロテスタンティズムに反対して1521年に法王レオ10世から信仰の擁護者(Defender of the Faith)という称号を与えられた(注1)くらいであり、単に、キャサリンと離婚してアン・ブーリンと再婚するために、キャサリンとの離婚を認めない・・カトリック教会は離婚を認めていない・・法王クレメンス7世に業を煮やしてカトリック教会と絶縁しただけだからです。
(注1)法王は、この称号を撤回したが、エドワード6世の時に、イギリス議会が国王にこの称号を改めて与えた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Supreme_Governor_of_the_Church_of_England
(ヘンリーはキャサリンとの間に男児がさずからず、このままだと、自分が死んだ後、王位継承を巡って争いが起こるのではないか、との強い懸念を抱いていました。)
現に、彼は、英国教会樹立後も、カトリックの教義を基本的に維持し続けるのです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Church_of_England
そもそも、ヘンリーの考えでは、彼と(彼の兄の妃であった)キャサリンとの結婚を当時の法王が認めたのがおかしい・・レヴィ紀(Leviticus)20:21の記述に反する・・ところ、そう指摘するのははばかられたため、兄と結婚してすぐ兄が死去しているので、キャサリンは処女のまま・・キャサリン自身は否定・・だから、その結婚そのものが無効であったことを認めて欲しいと懇願したのに、神聖ローマ皇帝のカール5世の意向もあってか、頑として現法王が認めない、というのでは話にならない、というわけです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_VIII_of_England#Divorce_from_Catherine
こうして、ヘンリーは、止むをえず、1534年、法律の形でイギリスの教会の首長(Supreme Head)であることを宣言したところ、法王クレメンス7世が彼を破門し、1536年に英国教会を樹立した、というわけなのです。(注2)
http://en.wikipedia.org/wiki/Supreme_Governor_of_the_Church_of_England 前掲
(注2)1559年に、エリザベス1世は、キリストを教会の首長とする聖書の記述に慮って、国王(女王)をイギリスの教会の総裁(Supreme Governor)へと改称している。
現在、イギリス(英国)の国王たる英国教会総裁は、首相の助言に基づき、英国教会の高位者達を任命する慣例になっている。
すなわち、いかなる意味においても、英国では政教分離は存在しない。
私は、以前から、戦前の国家神道は、この英国教に倣ったものであろう、と指摘しているところだ。(ウィキペディア上掲)
ただし、英国教については、その教義において・・儀典においてではない・・、ヘンリーの後を襲ったエドワード6世の治世において、若干のプロテスタンティズム化が起こり、更に、(カトリシズムに復帰しようとしたメアリー1世の治世を経た後の、)エリザベス1世の治世において、更なるプロテスタンティズム化が起こるも、完全にプロテスタンティズム化することなく現在に至っている、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E5%9B%BD%E6%95%99%E4%BC%9A
ということを付け加えておきましょう。
次に、清教徒革命ならぬ、イギリス内戦についてです。
前にもこの点に触れたことがありますが、イギリス内戦(English Civil War)については、英語ウィキペディア
http://en.wikipedia.org/wiki/English_Civil_War
の冒頭では、それ以外の呼称を全く挙げていないにも関わらず、日本語ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%95%99%E5%BE%92%E9%9D%A9%E5%91%BD
の冒頭では、同じ「事件」を「清教徒革命またはピューリタン革命」と呼び、それ以外の呼称として、「大反乱」、「三王国戦争」、「イギリス革命」、「ブリテン革命」の4つを挙げつつ、肝心の「イギリス内戦」を挙げていない、という異常な状態です。
これは、日本の歴史学界が、(「三王国戦争」だけはちょっと違いますが、)最新の英国での研究に追随できていないことを意味しているということでしょうが、私の見るところ、より根本的には、同学界が、というか日本の知識層がイギリスと欧州の同一視という思い込みに囚われたままであるからなのではないでしょうか。
つまり、欧州に宗教改革があったのだから、イギリスにだって、不十分な宗教改革たる英国教会樹立に飽き足らず、プロテスタント化の徹底という完全な宗教改革の試みがあってしかるべきだし、欧州に30年戦争等の宗教的内戦があったのだから、イギリスにだって、宗教的内戦があってしかるべきであり、また、欧州(フランス)に国王殺しを伴う市民革命があったのだから、イギリスにだって、同様の市民革命があってしかるべきだ、清教徒革命はこの三つが複合した事件だった、といった発想ではないか、と思うのです。
しかし、どうしてイギリスでは三つが一緒に起こったのよ、と混ぜっ返すまでもなく、このような発想は、そもそも、完璧に誤っているのです。
(続く)
欧州文明の成立(続)(その3)
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